後陽成天皇
和仁親王は16歳のと祖父から譲位される(後陽成天皇)。正親町上皇は院政らしきことは行っていたようだが、既に70歳であったのでそれほど政務に干渉してはいなかったようだ。関白には引き続き豊臣秀吉が就き、かつての戦国大名たちを家臣として独自の支配体制を敷いた。島津氏や北条氏(後北条氏)らによる反乱があったが、秀吉は天皇の命を受けているという強みがあり、ほどなくそれらを鎮めた。
秀吉には子供がおらず既に高齢であったため、上皇の孫である智仁王を秀吉の養子とし、次期関白にする予定だった。しかし、秀吉が53歳のときに実子の鶴松が誕生したため、その話は無くなって智仁王は宮家を設立し親王宣下を受けた。
ところが巡り合わせの悪いことに、鶴松は3歳で亡くなってしまう。1度解消した話を蒸し返すのも失礼なので秀吉は直ちに甥の秀次を養子として彼を次期関白とすることに決める。だがそれからまもなく秀吉に第二の実子である秀頼が誕生し、秀次は関白でありながら軽んじられるようになってしまった。その後秀次は不祥事により切腹となる。
名実ともに最高権力を得た秀吉だが、ここから途方もない構想を実行に移し出す。それは当時の大陸の大国・明(大明帝国)を征服し、天皇を日本人による新王朝の皇帝にするというものだった。そして皇子の良仁親王を新たに日本の天皇にするつもりだという。
天皇は「無茶をするな」と秀吉を窘めたが、強く中止を求めることはしなかったため、秀吉は朝鮮半島へ出兵した。当時の朝鮮半島は李氏を王とした国(李氏朝鮮)で、明の従属国だった。この出兵はある程度まで進んだものの、戦況が膠着して武士たちのモチベは下がっていく。天皇もぶっちゃけ北京になんか行きたくなかった。秀吉は休戦中に体調を崩し、次の天皇には良仁親王をという意向を示し、そして息子の秀頼の後見を徳川家康らに頼んで息を引き取った。秀吉の死をもって朝鮮への侵攻は中止された。
偶然にもほぼ同時期に天皇も体調を崩した。天皇は儲君(実質的な皇太子)だった良仁親王を差し置いて同母弟の智仁親王に譲位したい意向を示した。なぜ良仁親王に譲位したくなかったのかはよくわからない。だが皇位継承の原則から外れるこの意向は家臣たちの反対にあい、無効とされた。
秀吉亡き後、その家臣たちによる権力争いから戦が勃発する(関ヶ原の戦い)。東軍の徳川家康は豊臣秀頼の後見という立場を利用して朝廷や諸大名とコネクションを作っており、戦の前から天皇の支持を得ることに成功していた。それに反発する西軍の石田光成は朝鮮出兵時に、真面目過ぎる態度でモチベの下がった武士のことを秀吉に告げ口していたため評判が悪く、裏切りが相次いだためにあっさりと戦の決着はついた。家康は関ヶ原の戦いの後、天皇から征夷大将軍の位を授けられる。ここまで来れば家康にとって豊臣家は用なしとなり、家康は秀頼が就くはずの関白の位を公家に返し、豊臣家の力を抑えた。
その後、公家社会で乱れた性の実態が明らかになるという事件が起こり、うんざりした天皇は再び譲位をしたい旨を告げる。しかし良仁親王には譲位したくないので、家康との相談の上で良仁親王を出家させ、第三皇子の政仁親王に譲位することと決めた。家康は政仁親王に孫娘の和子を入内させて姻戚関係を結ぼうという意図があったのだ。




