後亀山天皇と後小松天皇
幹仁親王が即位した(後小松天皇)のは6歳と幼かったので摂政に二条良基が就いた。院政を始めた後円融上皇だったが、しばらくすると足利義満の権勢に怯えたのか奇行に走ってしまう。
自分の后や妾が、義満と不倫関係にあるのではないかと疑ってDVを奮い、義満がそれを宥めようとすると「義満は私を捕えて処罰するに違いない」と思い込んで自殺を図ったのだ。
結局義満自身が身の潔白を訴えることで上皇も落ち着いたが、それ以来上皇が政務に関わることはほとんどなくなった。義満も朝廷にあまり相談せず政務を執るようになった。
義満は数年かけて諸国を視察し、各地で力を付けている「守護」を南朝と結びつかないように牽制しながら南北朝を合一させるタイミングを図った。
南朝では熙成親王が兄の長慶天皇から譲位された(後亀山天皇)。異母弟の惟成親王が皇太弟となったようだが、詳細は不明である。
天皇は兄のような強硬派ではなかった。家臣たちの間でも和平派が優勢になっていたので北朝との和議を再開するつもりだった。南朝の最も重要な条件は「南朝を正統と認めること」であった。そこだけは絶対譲れなかった。尤もこの頃の南朝は財政的に極貧で、もう意地を張っていられなくなる程だったのだが。
義満は後亀山天皇と連絡を取り合い、以下のような条件で南北朝合一の話がまとまった。
・後亀山天皇は後小松天皇に三種の神器を渡して譲位してください。
・その後は昔のように持明院統と大覚寺統とで交互に天皇を即位させます。
・朝廷の財産は持明院統と大覚寺統とで仲良く分けましょう。
一番目の条件が重要で、これは南朝が正統であることを認めることを意味していた。義満はこれらの条件を北朝にナイショで決めていた。
こうして後亀山天皇は吉野山を下り、後小松天皇に”譲位”した。このとき長慶上皇と一部の家臣は態度を硬化させたまま吉野に残った(その後出家し、まもなく亡くなった)。後亀山天皇には太上天皇の号が贈られたが、このとき北朝から「では南朝を正統と認めるのか」と責められるのを避けるため、かつて守貞親王が天皇にはならなかったけれども上皇にはなった例に倣うという形での上皇の号ということにした。これで南北朝の対立はまるく収まったかと言えば……そうでもない。
義満は大仕事を成し遂げると、征夷大将軍の位を退いたが、新たに征夷大将軍となった息子の義持の後見をするという形で引き続き政務を執った。
そして義満の野心はさらに大きなものとなる。南北朝合一からまもなくして天皇の父である後円融上皇が亡くなり、数年後に天皇の母である三条厳子が亡くなると、義満は「2度の諒闇(天皇の在位中に両親を亡くして喪に服すること)は不吉です」と言い、義満の妻の日野康子を天皇の准母とした。やや理解しがたい理屈だが、これで諒闇を回避したということらしい。
ということで義満は准母の夫ということで”准父”とでもいう立場になり、ちゃっかり実質院政を敷くことになった。こうして義満は足利氏の最盛期を築き上げ、上り詰めた状態で亡くなった。そしてなんと死後には朝廷から「太上天皇」の号を贈るとまで申し出があった(ただし、義持が丁重に辞退した)。
一方、後亀山上皇は不安だった。天皇は即位からしばらくたっても(大覚寺統から)皇太子を決めようとせず、分け与えられたはずの領地もその土地を実際に治めている守護が力を持っていたため、なかなか大覚寺統の収入は増えなかった。南北朝合一の条件を守る気がないのではと危惧した上皇は、抗議のために突如吉野へと戻ってしまう。足利側は戻ってきてくださいとお願いするが無視される。仕方なく(あるいはこれ幸いと見てか)、天皇は我が子の躬仁親王を皇太子とし、そして譲位した。




