長慶天皇と後円融天皇
南朝では後村上天皇亡き後、その第一皇子である寛成親王が即位した(長慶天皇)。このとき天皇は26歳であったが皇子がいなかったため、異母弟の熙成親王が皇太弟となった。
この天皇に関しては資料が少なく、立太子の礼をしたのかも即位の礼もしたのかもわかっていない。ただ北朝からの和議に対しては頑なな態度を取り続けた天皇だったようだ。
そのため南朝軍の総大将の楠木正儀(正成の子)は離反し北朝につく。正儀は北朝との京の争奪戦で何度も武功を挙げていたが、無駄な戦は出来るだけやりたくないと考える人物だった。だが、当然北朝からは疑いの目を向けられ、南朝からは裏切り者だと戦を仕掛けられることになる。
この頃は足利義満(義詮の子)が征夷大将軍に就いていたが、まだ少年であったので実権は管領の細川頼之が握っていた。頼之は正儀を信頼し、要職に就けて援軍も送った。
北朝では先帝の譲位を受けて緒仁親王が12歳で即位する(後円融天皇)。やはり神器なしの即位であった。後光厳上皇が院政を敷いたが上皇は数年後に亡くなり、その後は公家の二条良基や武家の細川頼之が協力して政務を執った。また、足利義満も成長するにつれ政務に関わるようになっていった。
足利氏は南朝との戦いに明け暮れたため、京を離れるわけにいかず、なりゆきで京が本拠地になったのだが、そこで義満は公家とのコネクションを作ることにも力を入れた。室町に「花の御所」を建て天皇を迎えて盛大な宴会を催した。ここはその後も代々の征夷大将軍の座す邸宅となる。そして義満は公家としての地位も手に入れていくことになった。
武家の後押しを受けて即位できた天皇だったが、そんな義満の台頭のことは快く思わなかったようだった。天皇は皇子の幹仁王が6歳になると譲位し、院政を敷いて少しでも対抗しようとした。
楠木正儀はやがて細川頼之の失脚と共に南朝側に戻ることになったが、彼はそれからもめげずに和平交渉をしようと周囲に働きかけた。そんな姿を見て、天皇が心を動かされたかどうかはわからない。が、それからまもなくして天皇は熙成親王に譲位した。




