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歴代天皇即位の軌跡  作者: じゅう
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後村上天皇②と後光厳天皇

 足利尊氏は後村上天皇から直義追討の綸旨を貰うと東へと出陣した。

 だが南朝にとって足利氏は憎い仇。たとえ降伏しても仲良くやっていくつもりなど無かった。

 後村上天皇は足利尊氏が京に不在のままで、彼を征夷大将軍の位から解任し、代わりに異母兄の宗良親王を征夷大将軍に就ける。そして新田義興(義貞の子)らと共に東へ進軍させ、直義を破った尊氏軍に攻撃を仕掛けた。

 その一方で楠木正儀(正成の子)、北畠顕能(顕家の弟)らには京へ兵を向けさせた。彼らは京で留守番をしていた足利義詮(尊氏の子)の軍を破り京から追い払う。和議を決裂された義詮は、すかさず近隣の武士を呼び寄せて今度は逆に南朝軍を破って追い払った。だがその際、南朝軍は北朝の光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王を拉致していく。足利氏に再度擁立されないようにだ。

 しかしまだ北朝には、身柄が自由な弥仁(いやひと)王がいた。弥仁王は崇光天皇の同母弟だが、天台宗の寺に出家予定だったため南朝もノーマークだった。だが正式には出家していなかったので義詮はこの皇子を即位させようと目論む。しかし、その即位を命ずる上皇もみな拉致されてしまっていた(光明天皇即位時には光厳上皇の院宣があった)。

 そこで義詮は光明天皇や崇光天皇の関白であった二条良基と相談し、光厳上皇と光明上皇の母である広義門院(西園寺寧子)に頭を下げ、上皇代理になってもらおうとする。広義門院はむざむざ我が子や孫を拉致された足利氏に不信感を抱きつつも、北朝を維持するために仕方なく要求を飲んだ。

 こうして弥仁王は即位する(後光厳天皇)。三種の神器なしでの即位だ。このとき天皇はまだ15歳で、実際の政務は関白に再任された二条良基が執った。

 北朝で新たに天皇が即位したため、南朝側も、北朝の皇族たちを拘束する理由がなくなり適当な時期を見計らって解放することにした。

 だが帰ってきた上皇らと天皇との関係は微妙になる。崇光上皇と直仁親王は復位を望んだがそれが適わず、直仁親王は失意のうちに出家する。また後光厳天皇も我が子の緒仁(おひと)親王に皇位を継がせたいと思うようになっていたのだ。


 この後も北朝と南朝の戦いは収まることはなく、京の都は取ったり取られたりが繰り返された。北朝からは南朝に幾度も和平交渉が持ち掛けられたが、後村上天皇は強硬な態度を崩さなかった。しかし南朝の経済事情は逼迫して次第に天皇の健康状態は悪くなり、41歳のときに亡くなった。


 後光厳天皇は、父の光厳上皇が亡くなってしばらくすると、緒仁親王に譲位したい旨を足利側に相談する。しかし崇光上皇はそれを聞いて抗議する。持明院統の嫡流は崇光上皇で、我が子の栄仁(よしひと)親王が皇位を継ぐのが当然だという主張だ。だが足利側の武士にとってみれば南朝との戦いにおいて拠り所となったのが後光厳天皇であるため天皇の味方をした。こうして緒仁親王が立太子され、天皇は2日後に譲位した。

挿絵(By みてみん)


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