後醍醐天皇①
尊治親王が即位した(後醍醐天皇)のはこの当時としては異例の31歳という年齢の高さだった。
皇太子は両統迭立の原則に従うならば持明院統の後伏見上皇の皇子である量仁親王になるところだが、後宇多法皇の意向で大覚寺統の後二条天皇の皇子である邦良親王になった。後宇多法皇の主張はざっくり言うと「後二条天皇の在位はちょっと短かったし、今上天皇はあくまで邦良親王が天皇になるまでの中継ぎだから」というもので、それを強引に押し通した形となる。
天皇は院政を敷く後宇多法皇を見習った勉強熱心な人物で、政務にも意欲的であった。ただ後宇多法皇は、皇統がさらに分裂することを恐れ、あくまでも後二条天皇の子孫に皇位を継がせていくことを望み、天皇にもそう告げていた。
数年後、上皇は高齢のために体力が落ちて院政を止め、仏教の勉強に専念することにした。天皇は親政を始め、解放されたかのように良い成果を上げた。
天皇は親政になってからも学習意欲は薄れず、よく公家の人間と共に勉強会を行っていたが、この時に鎌倉の政権に対する批判が多く出るようになっていったようだ(※鎌倉から朝廷に権力を戻そうとする動きは以前からあり、後醍醐天皇がいきなり始めたわけではない)。
やがて後宇多法皇は重い病気に罹り、いよいよ最期のときが近いと悟ると邦良親王を枕元に呼びつけ天皇になった時の心構えを説き、そして亡くなった。それ以来、邦良親王側の近臣は天皇にそろそろ譲位をと請うようになった。また、持明院統側からも、早く譲位すればそれだけ自分たちの統からの天皇即位も早くなるので同様にせっつくようになった。が、天皇はなんやかんやと理由を付けて譲位に応じない。すると間もなく日野資朝ら天皇に近しい公卿が謀反を企んでいるというかどで逮捕される。勉強会の内容が謀反の計画と取られたか、あるいは譲位を迫る圧力だったか。天皇自身は証拠不十分で無罪であったがこの逮捕が鎌倉討伐の遠因になったとも言える。
ところが譲位を引き延ばしているうちに、今度は邦良親王が27歳の若さで亡くなってしまう。新たに皇太子を立てることになったが、候補として挙がったのは、亀山法皇の晩年の皇子である恒明親王、天皇の第一皇子である尊良親王、邦良親王の同母弟である邦省親王そして後伏見天皇の皇子である量仁親王だった。このとき大覚寺統の最大の発言力を持っていた後宇多法皇は亡くなっていたため、鎌倉は両統迭立の原則に立ち返って量仁親王を皇太子に決めた。
我が子に皇位を継がせるチャンスをふいにされた天皇は、皇子たちと共に鎌倉に不満を持つ武士たちを慎重に調べ上げ密書を送り仲間を集め始めた。また、第三皇子の尊雲法親王を天台座主(天台宗のトップ)とし、僧兵も集めさせた。だが充分な数が集まらないうちに計画は鎌倉に漏れ、謀反だということで天皇を捕えるべく兵が向かう。それを聞きつけた天皇は皇子たちを連れ、しっかり三種の神器を持ち出して御所を脱出した。そしてこれまでに集めた武士たちに挙兵を告げ、笠置山に登ってそこに陣を取った。
この行動で鎌倉は天皇を廃位し、量仁親王を天皇にすると決定した。




