後二条天皇~花園天皇
邦治親王が即位し(後二条天皇)、父の後宇多上皇が院政を敷くこととなった。後伏見上皇は当時まだ14歳で皇子がいなかったため、皇太子には後伏見上皇の異母弟である富仁親王がなった。この時伏見上皇は後々のことを考えて、富仁親王を後伏見上皇の養子にしてから皇太子にしている。
後宇多上皇は伏見天皇、後伏見天皇の在位期間中も漫然と待っていただけではなく勉強に勤しんでいたため、優れた院政を敷いた。持明院統と大覚寺統は対立していたが、どちらも善政を行って鎌倉から権力を取り戻そうとする目的は同じであり、優秀な天皇・上皇が誕生することになった。
この時代に、後深草法皇が最愛の后を亡くしてからは気落ちして自身も体調を崩して亡くなり、亀山法皇も張り合いを亡くしたかのように翌年には亡くなった。
天皇自身はあまり政務に関わらず歌集を作るなどの業績ぐらいしか残っていない。そんな天皇は在位およそ7年で急な病に倒れ、24歳の若さで亡くなってしまった。
富仁親王は12歳という幼さで即位(花園天皇)する。皇太子には後二条天皇の皇子である邦良親王を、といきたいところだったが、後宇多法皇は少し考える。皇太子が天皇になるのは順当にいけばおよそ10年後だが後二条天皇は亡くなってしまったので院政を敷くのは後宇多法皇ということになる。この当時の後宇多法皇の年齢は42歳。10年後の健康状態には不安がある。かといって邦良親王は現在9歳であり10年後でも親政をするのには若すぎる。というわけで後二条天皇の異母弟である尊治親王を中継ぎの天皇として皇太子にすることに決めた。
院政は伏見上皇が敷いたが、5年で後伏見上皇にバトンタッチ。実父の院政から養父の院政へという巧いやり口での移行だ。
天皇もまた学問や芸術に勤しむ人物であった。ユニークなのはここ何代かの天皇の業績を調べて批評を日記にまとめて記していることだ。持明院統・大覚寺統にこだわらず自身の評価を下しており歴史から学ぼう、未来につなげようとする意志が感じられる。
天皇は在位10年で予定通り尊治親王に譲位した。
次の部から太平記も参考にしていきます。




