後宇多天皇
後宇多天皇は即位当時11歳で、父の亀山上皇が院政を敷いた。
即位後まもなくして後深草上皇が行動を起こす。
「私はもう上皇やめる!そして出家する!」と宣言。そして後深草上皇に近しい公卿たち約30人もそれに付き合って出家すると言い出した。これは捨て鉢になった行動というよりもストライキのような意味合いだった。そこで動いたのが西園寺実兼だ。実兼は京と鎌倉のパイプ役を勤めていたのだが、以前、妹の嬉子が亀山上皇に冷遇されたことから後深草上皇派になっていた。
実兼は執権の北条時宗に、これでは後深草上皇がお気の毒です、と掛け合った。時宗も確かにそうだと思い、朝廷に対し、後深草上皇の子・熈仁親王を皇太子にしてくださいと提案する。この当時、日本は大国・元の侵略を受けており内輪もめをしている場合ではないと判断して早急に解決したかったのだ。だがこの判断が正しかったかどうかはわからない。ともあれ、鎌倉の提案通り皇太子が決まり、後深草上皇も出家するのを止めた。
後深草上皇はその後、お礼にとばかりに自分の子・久明親王を鎌倉の将軍にした。この頃の鎌倉が欲していた征夷大将軍はただのお飾りで、幼い時に就任させ、成人して自分で考えられるようになると謀反の疑いを掛けて辞めさせるということを繰り返していたのだがそれでもよかったようだ。
亀山上皇が院政を敷いたため、直接政務を執ることはなかったが、天皇は勉強熱心な少年で、学問や仏教、芸事に打ち込んだ。
元からの侵略は、武士が粘った為、やがて元の船が時化や台風に巻き込まれて大破し敗走させるという結果を迎えることができた。だが、防衛戦のため得るものはなく、武士に恩賞を与えることができなかったため鎌倉は信用と求心力を失っていくことになる。
即位から十数年後、天皇は鎌倉からのそろそろ譲位してほしいという要請を聞き、それに従った。




