亀山天皇
恒仁親王は11歳のときに同母兄から譲位されて即位した(亀山天皇)。院政は引き続き後嵯峨上皇が敷いた。後深草上皇は天皇の位を下ろされた寂しさを紛らわすように、西園寺家や洞院家(西園寺家の分家)の娘を始めとして多くの后を娶り、女官を愛人とした。元々好色だったのかもしれない。
複雑な気持ちで譲位したものの、天皇と後深草上皇の兄弟仲は悪くなかったようだ。というのも、この二人はよく蹴鞠や弓で勝負をし、負けたほうが自分に仕える女官にコスプレをさせて勝った方にご披露するというゲームをしていたのだ。
さらに、天皇も年頃になると兄にも負けず劣らず好色さを露わにし同様に多くの后や愛人の元に通った。
「兄上に仕えているあの女官、かわいいですね」
と天皇が言うと、後深草上皇が
「気に入ったのならお前にやるよ」というようなやりとりがあったとも言われている。
そんな中で少し気の毒だったのが、西園寺嬉子だった。彼女は天皇の中宮として入内してきたのだが、その当時わずか10歳。これでは后として愛するのは少々難しい。嬉子はさみしくて6年後には実家に帰ってしまった。そのため西園寺家は天皇を冷たい人だと思い、少し距離を置くようになった。
やがて天皇に第二皇子の世仁親王が生まれると(第一皇子は早世)、後嵯峨上皇はまもなくこの親王を皇太子とした。このとき後深草上皇がどう思ったのかは特に記録に残されていないが、心穏やかではいられなかったであろう。しかし父には逆らえなかったので黙っていた。かつては病弱ゆえに譲位もやむなしと思っていたが、年月と共に体調が良くなって自分の子供も生まれると、この子を天皇にしたい、そして自分が院政を敷きたいという望みを抱くようになっていた。
そんな様子を後嵯峨法皇(出家した)も感じ取っていたのだろう。どうしようかと迷っているうちに体調を崩し、やがて亡くなった。そして法皇は遺言を残していた。
「治天の君(院政を敷く人)を誰にするかは鎌倉におまかせする」
丸投げである。
鎌倉の執権、北条時宗(当時22歳)はそれを聞いて困った。仕方がないので後嵯峨上皇の中宮の大宮院(西園寺姞子)に、法皇の本音はどうだったのですか、と質問すると、弟の天皇の方です、と返答があったので時宗はそれに従い次の治天の君を決めた。
2年後、天皇は父の遺志に従って世仁親王に譲位し、自らは上皇となった。後深草上皇はガックリと崩れ落ち母を恨んだ。




