後嵯峨天皇~後深草天皇
朝廷では順徳上皇の皇子である忠成王を天皇にしたかったが、鎌倉がそれに難色を示した。忠成王が天皇になれば反鎌倉の順徳上皇の権力が復活するかもしれない。そこで鎌倉からは、土御門上皇の皇子である邦仁王がよいと提案する。今の朝廷では鎌倉に逆らうことはできず、邦仁王を天皇にすることに決まった。使いの者が邦仁王の屋敷へ向かいそれを告げると、邦仁王は大慌てで元服し(将来を諦めて元服もしないまま23歳になっていた)、そして即位した(後嵯峨天皇)。
この時いち早く動いたのが西園寺家である。西園寺家は藤原氏の名門だが近衛家や九条家のように摂政・関白になれるほどの格ではない。だが天皇の外戚になれば同格になれる。天皇の即位後まもなく西園寺家の娘、姞子が入内し、翌年には待望の皇子・久仁親王が誕生した。西園寺家は一家そろって大はしゃぎする。まもなく久仁親王は皇太子となった。
一方その頃、鎌倉ではお飾りの将軍だったはずの九条頼経が成長と共に現状を嫌い、執権として権力を奮う北条氏に対抗すべく、反北条氏の勢力の御家人と組むようになった。
天皇は鎌倉と対立を避け、京で優雅に遊興生活することを選んだ。やがて天皇は院政を敷くため4歳の久仁親王に譲位した。
久仁親王の即位(後深草天皇)と共に後堀河天皇は上皇になり、天皇の外祖父となった西園寺実氏は太政大臣に任命された。
少し気がかりなことは、久仁親王は身体に障害があって普通の子供よりも小柄であり、病気がちで真っすぐ立つことが出来なかったことだった。それでも天皇は気高くあろうと振舞い、やがてそのような体質も成長するにつれ徐々に治っていった。
しばらくすると鎌倉での御家人たちの権力争いの結果、九条頼経、その息子の頼嗣は相次いで征夷大将軍を辞めさせられ、もう九条家の人間を将軍にしたくないから皇子の誰かを将軍に迎えたいのですがと朝廷に申し出をした。上皇は天皇の同母弟の恒仁親王をと最初考えたが、実氏に忖度して天皇の異母兄である宗尊親王を征夷大将軍として鎌倉に送った。
恒仁親王は笛の上手な美少年として成長していく。上皇や姞子は次第に天皇よりも恒仁親王を愛するようになった。
天皇は17歳の時、少し重い病気に罹る。幸い命は取り留めたが、上皇からは譲位を促される。まだ天皇には子供がおらず、いつもしもの事が起きるかわからない。両親の気持ちが自分から弟に移っていることには気づいていて寂しく思っていたが、上皇の意向に従って譲位することにした。




