仲恭天皇
後鳥羽上皇は順徳上皇だけでなく、その他の子の雅成親王や頼仁親王も計画に参加させていた。ただ土御門上皇からは「その時ではありません」と止められたのだが聞き入れることはなかった。
後鳥羽上皇は全国の守護・地頭を含む武士たちに院宣を出し、鎌倉を討つための味方になれと命令した。だが北条政子も「現在の武士の地位向上は頼朝さまのおかげです。その恩義に報いようとするならば鎌倉の味方になりなさい」と声明文を出した。
後鳥羽上皇の見通しは甘かった。結果として朝廷軍より鎌倉軍の人数の方が圧倒的に多くなり、朝廷軍は惨敗。後鳥羽上皇は追い詰められ院宣を取り消した。
戦犯として後鳥羽上皇は隠岐の島へと流され、順徳上皇・頼仁親王・雅成親王もそれぞれ別々の場所に流されることとなった。土御門上皇はこの乱に参加しなかったということで無罪の筈だったが、土御門上皇自らが父や兄弟との連帯責任として流罪にしてくれと頼んでくる。鎌倉ではその態度に感心し、敬意を払いつつ比較的京に近い土佐国への流罪という処置にした。
そして天皇も後鳥羽上皇・順徳上皇の直系ということで退位させられることになった。まだ4歳と幼いために退位には反対もあったが鎌倉側の意向が強行されることになった。天皇は順徳上皇の譲位を受けて後、即位の礼もまだ行わないうちの退位で、歴代最短の在位期間(3ヶ月弱)となった。当時は廃帝扱いで「仲恭天皇」という号を与えられたのは明治時代になってからである。




