後堀河天皇と後高倉院
では次の天皇はどうしようかという議論になった。鎌倉からは、後鳥羽上皇の子孫は避けてほしいという強い意向があったため、注目を受けることになったのが守貞親王だ。かつて平氏の都落ちの際、兄の安徳天皇と共に皇太子として連れていかれたが、源氏に救出されて京に戻ってきてみれば既に弟の後鳥羽天皇が即位しており、天皇になる機を逃してしまった親王だ。
だが守貞親王は既に出家していた。後鳥羽天皇の後にはその皇子の土御門天皇が即位したため、自分はもう天皇になることもないと諦めていたのだ。出家した皇族は天皇になれないというのがルールである。また、守貞親王の子供たちも同じように出家していたが、末っ子の茂仁王だけはギリギリ正式な出家をしていなかったため、慌ただしく彼を天皇とした(後堀河天皇)。
天皇はこのときまだ10歳であったため、異例中の異例であるが守貞親王は天皇の位に就かなかったのにも関わらず太上天皇の号を送られ、かつ出家していたので法皇として院政を敷くことになった(後高倉院)。しかし権力をかなり鎌倉に奪われていたので、後高倉院の政務はもっぱら鎌倉との折衝や朝廷内の混乱の収拾に追われ、2年後には病気で亡くなった。
その後の朝廷では、関白の九条道家が権力を得ることになる。鎌倉に出向していた息子の頼経は征夷大将軍に正式に任命され、娘の竴子は天皇に入内して第一皇子の秀仁親王を産んだということで双方で発言力が高くなったのだ。
天皇は病弱であまり政務を執れず、まだ秀仁親王は幼かったが譲位しようと決めた。ただこの譲位には反対も多かった。あまりに幼くして即位した天皇は早世してしまうというジンクスがあったからだ。
近衛天皇:3歳で即位。17歳で崩御。
六条天皇:2歳で即位。13歳で崩御。
安徳天皇:3歳で即位。8歳で崩御。
しかし天皇は譲位を決行した。九条道家も天皇の外祖父となれることからそれを後押しした。




