土御門天皇~順徳天皇
九条兼実の失脚や後鳥羽天皇の譲位には、源通親(※源氏だが、源頼朝らの清和源氏ではなく公家の村上源氏)の働きかけによるところが大きい。通親の養女の在子は後鳥羽天皇の后であり、第一皇子の為仁親王の母であったため、通親は外戚として権勢を奮った。
土御門天皇が即位したのは4歳のとき。そして後鳥羽上皇も19歳という若さであったため、院政においては通親のサポートを受けた。通親も鎌倉とは表向き融和の方針だったが、上皇は反鎌倉派であり、徐々にそりが合わなくなっていった。
一方その頃、鎌倉では源頼朝が落馬した怪我が元で亡くなり、その後を息子の頼家が継いだ。だが彼は鎌倉のリーダーとなるにはまだ若く、部下である御家人たちをまとめきれなかった。頼家は内輪もめに巻き込まれる形で謀殺され、その後を継いだ弟の実朝もまだ少年で、御家人同士の権力争いは収まらなかった。
天皇は成長するにつれ穏やかで優しい少年に育ったが、上皇はそれを不満に思っていた。鎌倉の混乱に乗じて朝廷の権力を取り戻したかったが、それには鎌倉に毅然とした態度で臨める天皇であって欲しかったのだ。
そこで上皇の気持ちは自分に気性の似た皇太弟の守成親王へと移っていく。守成親王は平氏の血を引いており、源氏に対して敵対心を抱いていた。そして天皇が16歳のとき、上皇は通親ら公卿の反対を押し切って守成親王への譲位を迫る。天皇はおとなしくそれに従った。
守成親王が即位した(順徳天皇)のは14歳のとき。土御門天皇は上皇となったが政務に関わることはなく、後鳥羽上皇が引き続き院政を敷いた。天皇は後鳥羽上皇と同調して反鎌倉の立場をとり、鎌倉を討つ機会を伺っていた。
朝廷は実朝に高い位を与えたが、鎌倉との融和路線を進めるつもりではなく、あえて官位を与えることで鎌倉は朝廷の下の存在だということを知らしめるためだった。実はかつて源頼朝も後白河法皇から何度か官位を与えられかけていたのだが、その意図を見透かしていた頼朝は、辞退するか引き受けてもすぐに辞めるかして朝廷からの干渉を避けていたのだ。
だがそんな実朝も、頼家の子の公暁に親の仇として殺害される。ただちに公暁も将軍殺害の罪で処刑された。これで源氏の嫡流が断絶し、鎌倉の北条政子(源頼朝の妻)は後鳥羽上皇に、あなたの皇子を次の征夷大将軍に迎えたいと打診した。だが上皇は日本の国が二つに分かれることになってしまう(そして自身の大切な皇子をそんな物騒な鎌倉になぞやれん)、とそれを拒絶。むしろ今こそ鎌倉を倒すチャンスだと密かに兵を集め、鎌倉の執権である北条義時を討つ準備を始めた。天皇もその計画に参加するため、身動きが取りやすいよう、天皇の位を我が子の皇太子である懐成親王に譲ることとした。
なお、後継の征夷大将軍については、以前から親鎌倉派だった九条家から申し出があり、幼い若君の頼経が鎌倉に向かうことになった(正式に征夷大将軍となったのはこの数年後)。




