安徳天皇②と後鳥羽天皇
平氏が都落ちした後、公卿たちの間ではこのまま平氏を追討しようか、いや天皇と神器を取り戻すことが先決だという意見とに分かれたが、そこに後白河法皇が源義仲の軍に護衛されながら戻ってきた。
法皇は、新たに天皇を立てるべきだという意向を示した。こうすることで平氏が天皇を連れて行ったことを無意味にしようという意図だ。では新しい天皇は誰にしようかというところで、義仲が提案する。自分の武勲は以仁王が令旨を出してくれたからだ。だから以仁王の子である北陸宮を天皇にすべきだ、と。
しかし法皇をはじめとした朝廷の面々は、天皇の子でもないのに天皇にするのはいかがなものか、そもそも武士が皇位に関して口出しをするなど僭越だ、とその意見を却下した。そして候補に挙がったのは高倉天皇の第三皇子である惟明親王と第四皇子である尊成親王だった。二人ともまだ幼児だったが、後白河法皇は顔を見てみることにする。すると惟明親王は法皇に呼ばれるとぐずったが、尊成親王はトコトコと法皇の膝の上に乗って懐いたので、法皇は尊成親王を天皇にしようと決めた。だが、三種の神器も平氏が持って行ってしまったため、仕方なく神器無しで即位式を行う(後鳥羽天皇)。なお、後鳥羽天皇の摂政には安徳天皇の摂政だったが京に残った近衛基通が就くことになった。平氏と縁の深い基通なのに摂政になれたのは、彼が法皇の愛人だったからだ、とも囁かれた。
こうして神器無しの即位と、二人の天皇の並立という前例を作りだしたことが後の世をややこしくしてしまうのだが、それはその時にまた記す。
さて、義仲は当初朝廷から歓迎ムードだったのだが、京では義仲軍の兵士たちによる略奪行為が行われるようになった。法皇は義仲に止めさせろと命令するが、彼は平氏追討のために軍の物資を整える行為だと主張した。武士は戦の時には近隣の集落から徴収という名の略奪を当然の権利として行っていたのだ。
これでは平氏の時代より悪くなってしまっているではないか、と京中で義仲の評判が悪くなったため、法皇は鎌倉の源頼朝になんとかしてくれと便りを送る。以前から義仲とは仲の悪かった頼朝は異母弟の範頼と義経(かつて平清盛に助命された牛若が元服して名乗った名前)に軍を率いさせて京に向かわせた。
それを知った義仲は法皇を急襲し、法皇はまたしても幽閉の身となる。だがここで義経の軍が到着し隙をついて法皇を救出。そのまま義仲軍との合戦となり、義仲を討った。法皇は今度は義経を頼って平氏追討を命じる。また、源氏の総大将である頼朝に対して、全国の平氏を討つために特別に全国各地の警備や土地管理の権利を与えた。これこそが頼朝が朝廷に取って代わる統治体制の準備であった。
義経は奇襲を駆使して平氏に勝利し続ける。追い込まれた平氏は全滅を覚悟した。女船に乗っていた平時子(清盛の妻)は安徳天皇を抱き、神器の草薙剣と神璽を持って入水した。源氏武者によって取り返すことができたのは天皇の弟の守貞親王と神器の鏡、そして海面に浮かび上がった神璽だけだった。
殊勲を立てた義経は鎌倉に戻りかけたが、頼朝は義経の独断専行と勝手に法皇から官位をもらったことを咎め、それを許さなかった。頼朝の構想している新たな統治体制を敷くためにはルールを破った義経に厳しく当たらないと示しがつかなかったのだ。だが義経にしてみれば平氏討伐の最大の功労者である自分がそんな扱いを受けることは到底承服できず、その後の頼朝の命令を無視する。そして法皇に泣き落としのように迫って頼朝討伐の令を出させた。
それを知った頼朝は法皇を問い詰め、逆に義経追討の令を出させる。そして追討の名目で全国の警備と土地管理の権利をそのまま継続させた。それらは守護と地頭と呼ばれるようになった。摂政であった基通もまた頼朝討伐の令に関わっていたとして辞めさせられる。その後任には、後鳥羽天皇の后の父で、源頼朝との融和を図る九条兼実(本姓は藤原。九条家の祖)が就いた(後に関白となる)。
義経はわずかな部下と共に逃避行を続けるが、やがて追い詰められて自害する。
後白河法皇は鎌倉を苦々しく思いつつもその勢力を恐れ何もできぬまま数年後に病気で亡くなった。このときまだ天皇は13歳で、実権は関白の兼実が握った。兼実は頼朝に征夷大将軍の位を与え、協力体制を執ろうとしたが、やがて天皇と不仲になり失脚する。
天皇は院政に関心を示し、19歳の時に第一皇子の為仁親王に譲位して上皇となった。




