六条天皇~高倉天皇
順仁親王は物心もつかぬうちに父から譲位されることになった(六条天皇)が、即位式のときに大声で泣きだして乳母からお乳をもらっておとなしくなったという逸話がある。最年少で即位した天皇である。摂政には近衛基実(藤原忠通の子。本姓は藤原で近衛家の祖)が就いた。基実は二条天皇の関白で、二条天皇派の人物だったが翌年に急な病気で若くして亡くなってしまい、基実の子の基通もまだ幼かったため、異母弟の松殿基房(本姓は藤原。松殿家の祖)が摂政を継いだ。基実は平清盛の娘、盛子を正室にしていたため、基通は盛子の養子とし、清盛は後見人となった。この頃には清盛は武家出身者では初の太政大臣になるなど権勢を誇っていた。
だが基房は後白河上皇派の人物だったため、2年後には上皇の意向を汲んで上皇の子の憲仁親王への譲位に同意した。天皇にしてみればほとんど何もわからないまま即位・譲位したことになる。
憲仁親王は8歳にして即位(高倉天皇)。松殿基房が引き続き摂政となった。清盛も娘の徳子を天皇に后として差し出し、数年後には徳子は言仁親王を産み、すぐさま立太子される。だが清盛は喜んでいるだけではいられなかった。この頃から後白河法皇(出家した)の側近を中心に、平氏を疎ましく思う公家たちの勢力が大きくなっていた。
後白河法皇の后で清盛の義妹である平滋子が亡くなると法皇と清盛の仲に亀裂が入っていく。藤原信西の子や元部下らが平氏打倒の謀議を行ったり(その場には後白河法皇もいた)、盛子が亡くなったときにその領地が相続されず法皇に没収されたり、清盛が後見していた基通を差し置いて基房が我が子の師家を出世させたり。
こういったことの積み重ねで清盛は(強引に)天皇の許可を得て兵を率い、法皇の御所を囲んだ。清盛は「平氏を滅ぼすおつもりか」と怒り、法皇は「もう私は政務に関与しないと約束する」と告げて場を治めようとするが、清盛は法皇の身柄を拘束させ鳥羽殿に幽閉。当然院政も停止。そして後白河法皇派の公家を解任させて自分に都合のいい人事を行った。
この出来事で天皇は心を痛め、もう平氏には逆らえないと気落ちしたのか、まもなく言仁親王に譲位した。




