二条天皇
後白河天皇は譲位後、白河法皇や鳥羽法皇に倣って院政を敷くつもりだった。元々中継ぎの天皇という扱いとは言え、藤原信西の仕事を承認していくうちに政務に全くの無関心というわけでもなくなっていた。ただ、信西は藤原氏の中では身分の高い方ではなく、彼の行った法令の刷新などで朝廷では信西に反感を抱く者も少なくなかった。
一方、15歳で即位した(二条天皇)守仁親王は、生後間もなく鳥羽法皇の皇后、藤原得子に養子とされ育てられたため、実父の後白河天皇に対してあまり父という意識は無かった。天皇は実母の弟の藤原経宗や乳兄弟の藤原惟方を側近として置き、自らが政務を執る意欲を見せた。だが信西の権勢は強く、目の上のこぶだった。
ある時、藤原信頼は後白河上皇に近衛大将の位につけてほしいと懇願する。上皇からの寵愛の証を欲していたかのようだ。さすがに近衛大将ほどの高い位(大臣クラス)は上皇のひいきというだけでは就けることはできず、上皇は信西に相談する。信西は「相応の能力が無い者を高い位に就けたりすると世の中が乱れます」と窘めた。
その話を聞いた信頼は信西を恨むようになる。そして同じく信西を恨む源義朝や邪魔に思う経宗や惟方らの公家に声を掛け、クーデターを目論んだ。そして平清盛がお参りに行くために京を離れた隙をついて、義朝の率いる兵は上皇の御所を囲む。上皇を強引に御所から連れ出すと、中に残る信西と子供たちを焼き殺すべく火を掛ける。信西はその場はギリギリ逃げだしたが、その後、兵に追い詰められ覚悟を決めて自害した。
上皇は天皇と共に内裏に軟禁され、信頼が急ごしらえで朝廷の人事を刷新し、信西派の人間を排除した。
平清盛はこの知らせを聞いて引き返してきたが、天皇と上皇が身柄を拘束されている以上、うかつに手出しをすることもできず近くで様子を伺うこととする。そこに経宗と惟方からのコンタクトがあった。上皇と天皇を京から脱出させるための協力の申し込みだった。経宗と惟方にしてみれば、信西を排除できればそれでよくて信頼の体制に従うつもりなど全く無かったのだ。
そして清盛は脱出作戦への同意を返信する。天皇と上皇は変装し、わざと起こしたボヤ騒ぎに乗じて三種の神器と共に内裏を脱出。上皇は同母弟のいる仁和寺へ、天皇は清盛の控える六波羅へと向かった。そして清盛はこの六波羅こそ朝廷だと宣言した。
天皇・上皇を失った信頼は途端にオロオロしだして、義朝はダメだこりゃと思ったが今更引くに引けないので兵を整え清盛の軍の襲撃を待ち構えた。しかし待機中に各国に声を掛けて兵を集めていた清盛の軍には敵うはずもなく京を捨て敗走した。信頼は義朝に、逃げる当てがあるのなら一緒に連れていってくれと願うが、その情けなさにキレた義朝に殴られてそのまま置いていかれた。仕方なく信頼は仁和寺に向かい、後白河上皇の情けを期待して助けを乞うが、聞き届けられることはなく捕らえられて処刑された。また、義朝とその息子たちも追走の兵に捕らえられて処刑されたり、逃げきれぬと自害したりと次々と命を失った。
義朝の三男で当時13歳の頼朝もまた捕らえられ、清盛は処刑するつもりだったが、継母の池禅尼に命乞いされたために伊豆へ流刑とするにとどめた(余談だが、池禅尼は崇徳天皇の部でチラッと触れた重仁親王の乳母である)。また頼朝の異母弟たち今若・乙若・牛若も、母の常盤御前の命乞いに胸を打たれた清盛の恩情で助命された。
戦が終わってみると、後白河上皇は側近の信西と信頼を失ったために天皇の権勢の方が強くなった。
しかし後白河上皇はそれでフェードアウトすることは無かった。天皇の側近である経宗と惟方を平清盛に命じて捕えさせると「考えてみたらおまえ達もクーデターに参加してただろう」と責め、流罪にした。
それからまたしばらくして後白河上皇に男子(憲仁親王)が生まれると、上皇の側近がうっかり憲仁親王を皇太子にと口にしてしまったことが問題となり、役職を外されることになった。天皇はまだ若く子供がいなかったがこのまま異母弟が皇太子と確定してしまうと将来的に権力を失うことになる。この後、別の側近が天皇を呪ったという容疑が持ち上がりその者を流罪とした。
泥仕合のようになった上皇と天皇の争いだったが、こうして公家たちの潰し合いの隙間を埋めるように平清盛ら平氏一門が朝廷に入り込み。漁夫の利で権力を増すことになるのだった。
数年後、天皇は重い病に罹る。この時、天皇は当時まだ2歳(生後7か月)の我が子、順仁親王を皇太子にすると決めた。それからしばらくして天皇は回復することなく若くして亡くなった。




