後三条天皇
後冷泉天皇の即位とほぼ同時に尊仁親王が皇太弟になったのは12歳のとき。尊仁親王は後冷泉天皇の在位中、漫然と待っていたわけではなかった。大江匡房や藤原実政といった学者についてもらい、熱心に勉強にいそしんでいた。年頃になると藤原能信の養女の茂子を妃とし、間には5人の子供を儲けた。
しかし母や能信から藤原摂関家の怖さを聞いていた親王は、東宮御所のそばで何かトラブルがあるたびに「よもや刺客か!?」と警戒しながら過ごしていたという。
また、藤原摂関家の娘が後冷泉天皇の后となっても、男子が生まれず、後冷泉天皇の晩年には藤原頼通は天皇の外戚となることを諦めて関白の座を弟の教通に譲った。
やがて後冷泉天皇が亡くなったとき、尊仁親王は35歳。勉強で得た知識や人生経験も十分な状態での即位だ。
後冷泉天皇の部で朝廷の財政難について触れたが、これは荘園が拡大したことに原因があった。
かつて聖武天皇は墾田永年私財法を発令し、開墾した土地はずっと自分たちの土地にしてよいと決めたため、各地の有力者が人を使い自分たちの土地を拡げていった。これを荘園といった。もちろん荘園から得た収入には税がかかるが、寺社や一部の有力貴族(主に藤原氏)の荘園は税が免除されるという特権があった。そこで地方豪族は考えた。自分たちの土地を特権を持つ者に寄進し、そこで自分たちが働いて報酬を得るという形式を採ることにしたのだ。こうすれば直接自分たちの土地から税を取られるより収入が増えるようになる。しかし、こんなことを続けていれば朝廷の税収が減るのは当然のことだった。
これまでの朝廷も何度か荘園整理令を出していたのだが、実際に政務を執っていたのが藤原氏だ。荘園の恩恵を最も受けていた藤原氏が自分たちの首を絞めるようなことに消極的だったのは言うまでもない。
だが天皇は摂関家と血縁が薄く、遠慮のない荘園整理令を出した。東宮時代に勉強してきたおかげで関白の藤原教通と意見が相違しても押されることなく自分の考えを反映させることができた。後三条天皇は他にも全国統一規格の升を決めるなど積極的に政務に関わった。はりきりすぎたため、一部の貴族からは「天皇ともあろう方が表に出て……」などと陰口を叩かれた。天皇は宮殿の奥でひっそり構えているものだというのが常識だったからだ。
また天皇は藤原摂関家に権力が偏らぬよう、后には皇族や源氏、摂関家の傍流の姫を選んだ。皇太子には自分の東宮時代に世話になった能信の娘の茂子の子、貞仁親王を選んだが将来的には源氏の姫との間に生まれた親王の血統で皇位を継がせたいと考えるようになった。
こうして大改革を始めた天皇だったが在位5年足らずで病に侵され、貞仁親王に譲位することとなった。




