後冷泉天皇
譲位した病床の後朱雀上皇のところに藤原能信がやってきた。
「尊仁さまの今後はどうするのですか。出家させるおつもりですか」
「いや東宮(皇太子)にするつもりだ。だが頼通はあせって東宮を決めることもないと言うのでな」
「いえ、今お決めにならないと、後になって面倒なことになるかもしれません」
「そう言われてみればそうだ。病気のせいで頭が回っていなかった。では今日のうちにはっきり決めておこう」
そして上皇は頼通を呼び寄せ尊仁親王を皇太弟とすることを告げた。内心頼通は舌打ちしたかもしれない。頼通は血縁の薄い尊仁親王を天皇にはしたくなかったので話を先延ばしにしていたのだ。そして二日後に上皇は亡くなった。能信はギリギリのタイミングだったのだ。
そして即位(後冷泉天皇)した親仁親王だったが、頼通を先代から引き続き関白に任じるとあまり政務に関心を示さず平安貴族の雅な遊びに興じていたようだ。「今鏡」では天皇が遊んでいたことばかり記述されている。この時代は平和で安泰な時代だったのかというとそうでもなく、朝廷の財政は危機に陥っており、東国では武士の乱が起こっていた。また世間では末法思想が流行っていた。だが、そういったことへの計らいは家臣に任せていたようだ。
また、天皇は頼通の娘と教通の娘とを后にしたが、頼通の娘との間に子供は生まれず、教通の娘との間には皇子が誕生したが不幸なことに誕生当日のうちに亡くなってしまった。こうして尊仁親王を押しのける皇子が生まれることもないまま、天皇は23年在位し、44歳で生涯を終えた。




