円融天皇
守平親王が即位した(円融天皇)ときはまだ11歳だった。そのため太政大臣の藤原実頼が摂政に就いたが1年ほどして亡くなった。皇太子の師貞親王の外祖父にあたる伊尹がその後を引き継いで摂政となったが彼もまた1年ほどで亡くなった。それでは次の摂政あるいは関白はどうすべきかというところで、伊尹の弟の兼通が天皇に近づき、母上(安子)からの遺言ですと言って手紙を見せる。そこには確かに彼女の筆跡で「関白は兄弟順で就かせるべし」と書かれていた。あの怖い怖い母の安子の言葉となれば無視できない。というわけで天皇は兼通を関白とした。その兼通もしばらくすると重い病気になり、次の関白は兼通の弟の兼家にしようかと思っていたところに、兼通が病身をおしてやってきて「次の関白には私のいとこの頼忠を」と頼んだ。兼通と兼家は仲の悪い兄弟だったので兼家には譲りたくなかったのだ。
即位したときは何もわからない少年だった天皇も、年を重ねるにつれ世の中の仕組みが次第にわかっていった。冷泉上皇や為平親王といった兄たちが藤原氏の権力争いに利用され犠牲となった者であるということ。そして自分も同様であること。しかし藤原氏の力なくしては朝廷が成り立たないこと。そんな思いを抱えていたからだろうか、天皇は年頃になると数人の后を迎えたが、儲けた子供はわずか一人、藤原兼家の娘、詮子との間に生まれた懐仁親王だけだった。
天皇は26歳のとき、譲位を決意する。ただし次の皇太子は我が子の懐仁親王にせよという条件をつけた。ただの中継ぎの天皇ではないという、ささやかな抵抗を示したのだ。




