仁明天皇
譲位され天皇(仁明天皇)となった正良親王は、皇太子を我が子ではなく淳和上皇の子である恒貞親王にすると宣言した。これでは淳和上皇が皇位をパスした意味がない。淳和上皇は慌ててその立太子を辞退する書状を送ったが受け入れられなかった。
どこかで見たようなやりとりだが、この立太子には嵯峨上皇の意志があったことは間違いないだろう。なお、即位の時点では皇太子は9歳、天皇の皇子の道康親王は7歳だった。道康親王は幼いながらもしっかりした子供で、初めて公式の場で仁明天皇に挨拶した時には大人同然の立ち居振る舞いをして同席した人々を感心させたと言われている。だが、淳和上皇や皇太子に仕える家臣たちは将来権力争いになるのではと心配することになった。
我が子を守りたい淳和上皇と、皇族の血の濃い天皇を誕生させたい嵯峨上皇の二人。目的は違えど恒貞親王を大切に扱うという点で一致し、不思議なバランス感覚で平和な時代が続いた。しかし数年後、淳和上皇が病に倒れたときから均衡が崩れだす。
淳和上皇は病床に恒貞親王と忠臣の藤原吉野を呼び出すと自分の死後のことを頼んだ。私は飾り立てることが嫌いだ。そして死んだ後まで周りに面倒は掛けたくない。だから私の葬儀は簡素にしろ。陵もいらない。散骨してくれ、と。藤原吉野は「かつて宇治稚彦皇子(菟道稚郎子)さまはそのような命令をされたと聞きますが、あくまで親王でした。天皇になられたあなたをそのような扱いにはできません」と反対したが、結局上皇の言うとおりにすることにした。上皇がいかに皇位が不本意なものであったかを示すエピソードだ。
この頃宮廷で病が流行っていたのだろうか、淳和上皇の亡き後、上皇の孫の正道王や皇太子の弟の恒統親王も数か月の間をおいて亡くなり、そして嵯峨上皇もまた病で帰らぬ人となった。
その直後、平城天皇の皇子の阿保親王が密書を太皇太后(嵯峨天皇の皇后)に届けた。皇太子に仕える家臣、伴健岑と橘逸勢が仲間を引き連れ、皇太子と共に東国へ移ろうと計画しているという内容だった。健岑と逸勢は皇太子が権力争いに巻き込まれることを恐れてそのような計画を立てたようだ。阿保親王はかつての平城上皇のやらかしの連帯責任で皇位争いとは縁の無い皇族になっていたため、この計画について相談を受けたのだと思われる。しかし阿保親王は何か裏がありはしないかと疑い、太皇太后に判断を仰いだ。太皇太后は中納言の藤原良房に相談し、良房は天皇に「これは謀反の計画です」と訴えた。良房の妹、順子は天皇の后で道康親王の母だった。
天皇は良房の訴えどおりこれを謀反と断じ、関係者を捕らえさせた。恒貞親王は何も知らなかったのだからと庇おうとしたものの、計画に名前が挙げられていた以上責任を取らせなければならないと考え、廃太子とした。恒貞親王はその処遇を受けて内心はホッとしたのかもしれない。廃太子の数年後、親王は出家した。
新たに皇太子となったのは道康親王だった。この事件により恒貞親王派だった家臣たちが流罪・左遷の処罰を受け、藤原良房にとって都合のいいように事は運んだ。良房はしばらくすると娘の明子を道康親王の妃とした。
天皇は数年後、病に罹り道康親王に譲位して出家したが、その1ヶ月後に亡くなった。
続日本後紀は仁明天皇1代のみです。
以降の天皇については「大鏡」「栄花物語」「愚管抄」などを参考にしていきます。まとめるのに時間がかかるのでこれまでよりも更新は遅くなると思います。




