文徳天皇
道康親王は仁明天皇から譲位された暁には、自身の最年長の男子である惟喬親王を皇太子にと考えていたが、そこに、まるですべりこむように惟仁親王が誕生する。
仁明天皇譲位:嘉祥3年3月19日
仁明天皇崩御:嘉祥3年3月21日
惟仁親王誕生:嘉祥3年3月25日
文徳天皇即位:嘉祥3年4月17日
惟仁親王は、右大臣の藤原良房の娘の明子が産んだ子である。良房はこの子を皇太子にと願い出る。惟喬親王の母は名門貴族の紀氏の娘ではあるが、藤原氏ほどの身分ではない。皇太子の座は紛糾し、僧侶まで巻き込んだ。空海の2人の弟子はそれぞれの親王について立太子を祈願したと言われている。なお、時代をさかのぼると、嵯峨天皇が平城上皇と争ったときには、空海が嵯峨天皇の勝利を祈願したと言われている。このように僧侶があたりまえのように政治の世界に関わるようになっていたのだ。
結局、即位からおよそ半年後に惟仁親王が立太子されたが、それでも文徳天皇は惟喬親王を寵愛していたので天皇の座につけたいと思っていた。しかし、左大臣の源信(臣籍降下した嵯峨天皇の子)から、権力争いに巻き込んでは親王の身に危険が、と言う忠告を受けてしぶしぶ引き下がった。
天皇はあまり政治に関心が無かったのか、業績はあまり語られていない。無念のまま32歳のとき、突然亡くなってしまう。天皇は多くの后を迎え、30人以上の子を儲けているので病弱だったとも思えないのだが、とにかく若すぎる死であった。それはすなわち、皇太子も幼すぎるということであった。




