孝徳天皇
突如として葛城王子の前に現れたのは漢王……否、漢王子である。
「大王の年長の子が次の大王になるというのなら、私も大王の子だ」
なんと、漢王子は大王が舒明天皇に嫁ぐ前の夫、高向王との間の子だった。
漢王子は用明天皇の曾孫であり、王族とは言え大王になれるような身分ではなかった。ところが母が田村王の妃となり大后となり大王となったことで大王位継承候補者という身分にまで昇ってきたのだ。
葛城王子にしてみれば、王位継承のライバルとなるのは蘇我の后の子で年上の古人王子かと思っていたが、自分には王族と王族との間の子であるというアドバンテージがある。しかし漢王子もまた王族と王族の子であり、かつ年上である。葛城王子は中臣鎌足に相談した。
「今、あなたが即位されますと、人の弟として兄に従うという儒教の教えに背くことになってしまいます。叔父の軽王を大王に立てましょう」
と、鎌足は正論を言いながらしれっと自分のかつての軽王との約束を果たす。
一方、古人王子は、蘇我入鹿が討たれ、蝦夷も次の日に自殺し、後ろ盾を失った今、大王位を継ぐ気もなくなり出家した。ただ、娘の倭姫王のことは心配だったので、葛城王子に妃として迎えてもらった。余談ながら蘇我蝦夷の妹で山背王の母である刀自古郎女(河上娘)も同時期に出家して善光寺の尼僧となっている。
こうして軽王は大王に即位(孝徳天皇)した。即位する前からの后の父の阿倍内麻呂を左大臣に、蘇我入鹿を討つときに協力した蘇我の分家の蘇我倉山田石川麻呂を右大臣に、中臣鎌足を内臣とした。また、蘇我倉山田石川麻呂の娘を新たに后に迎えたが、大王としては大后となる王族の姫を迎えたい。だが王族には適当な女性が少なく、止むを得ず葛城王子は同母妹の間人王女に后になってもらう。政略的な結婚は当たり前の時代とは言え、50歳の叔父と20歳に満たぬ姪との結婚で、しかも間人王女と葛城王子は兄妹愛を超えた恋愛感情もあったと言われ、不幸な話でしかなかった。この大后との間には子が生まれることはなかった。
大王を改め、宮を難波に移し、元号を新規設定して心機一転、隋・唐から得た知識をもとに追い付け追い越せの精神で新たな時代を作ろうと多くの人間が意気込んだが、何しろ聖徳太子が行った以上の大改革ゆえに手探りの進行で、その分多くの反発があり、朝廷内でも意見の相違によって激しい対立があった。その混乱の中、古人王子が謀反を起こそうとしていると密告があり、葛城王子は兵を差し向けて古人王子を討った。大王が即位してからわずか3ヶ月目のことで古人王子が本当に謀反を企てていたのかは疑わしい。ただ、不満分子が担ぎ上げる可能性は充分にある王子だったので、葛城王子はずっと恐れていたのだろう。
大王の業績は以下のようなものだった。
・公地公民制(すべての土地と人民は公のものである)を発令 → 一朝一夕で豪族が納得するようなものではなく、難航した。
・新しい冠位を制定した → 右大臣左大臣はその冠位の対象から外された。
・新羅との国交正常化のために任那をあきらめた。
・公共工事を推進した → 工事計画のミスで一般の民の不満も高まった。
また、阿倍内麻呂が亡くなった後、蘇我倉山田石川麻呂が葛城王子の暗殺を目論んでいるという讒言があり、兵を向けられたため石川麻呂は家族とともに自殺する。大王が即位してから5年も経たぬうちに朝廷はグダグダになっていった。
葛城王子は大王に、宮を大和に戻してやり直しましょうと進言したが、大王は聞き入れなかった。すると葛城王子は大王を置いて、皇祖母尊(先代の大王)、大后の間人王女、漢王子と共に難波の宮を去って大和に行ってしまう。それほどまでに朝廷内の対立は深刻だったのだ。
大王はここで恨みをこめて歌を詠む。ところがこの歌には葛城王子と間人王女の恋愛関係が示されていたのだ。もちろんこの時代でも同母兄妹の恋愛はタブーである。日本書紀にその歌が残されたということは大王は書き残したのだろう。もしそれを「誰か」が入手したとすれば……。
孤立した大王は体調を崩し病床につく。1年ほど経って病気が重くなると、さすがに葛城王子たちも、政治的な対立を抜きに心配し大王のもとに駆けつけ、最期を看取った。
天武天皇=漢皇子説を採用しています。




