斉明天皇
急激な改革で臣下や民に混乱をもたらしたことの反省から、一度孝徳朝をリセットする意味合いで、次の大王には譲位した皇極天皇に再び即位(重祚)してもらうこととなった(斉明天皇)。葛城王子としては、漢王子との大王位争いを先延ばしにする意味もあった。だが、漢王子も黙ってそれに納得した訳ではない。葛城王子の二人の娘、大田女王と鸕野讚良女王を妃として貰い受けている。それは大王になる準備をしているかのようだ。嫁いだ時、鸕野讚良女王はわずか13歳であった。後年、漢王子はさらに葛城王子の2人の娘を妃としている。
漢王子はまだ野心もない若いころに、宣化天皇の玄孫である宮廷歌人の額田王と結婚して子供も儲けていたが、やがて額田王は葛城王子に奪われ後宮に入ったと言われている。それだけが原因だとは思えないが、叔父姪婚が4度繰り返された(そしてそれを葛城王子が許した)ことには異様なものを覚える。
再び即位した大王であったが、公共工事を数多く行ったために労力・資材の無駄遣いだと評判はえらく悪かった。
そんな折、朝廷の家臣の一人、蘇我赤兄が孝徳天皇の子である有間王子をそそのかして謀反を持ち掛ける。有間王子は王位継承の争いに巻き込まれるのが嫌で、体調不良を理由に温泉地で療養していたのだが、赤兄の言葉の巧みさに絆されて、とうとうその気になってしまう。だがこれは赤兄の、そして指示を出した葛城王子の罠だった。たちまち有間王子は捕らえられて絞首刑にされてしまう。これも失政の責を問われて謀反が起こされることを恐れ、先回りして潰したのだと思われる。
それから数年後、百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされるという大事件が起こった。古くから友好的な付き合いをしてきた百済が復興を目指して戦っているので助けてやりたいと思う一方、唐や新羅とも良い関係を築きたいのでコトを構えたくないとも思っており、葛藤の末、百済を助けるために出兵することを決断した。国を挙げての重要な判断ゆえに、士気を高めるため大王と葛城王子も軍に同行した。このとき漢王子は大和に残してそちらの仕事を任せたものと思われる。
だが大王は既に高齢で体力も精神力も衰えていたため、行軍の途中に幾度も怪奇現象に見舞われ、筑前の陣地に着いたところで亡くなってしまった。しかしここまで来て引き返すわけにもいかない。葛城王子は大王の死に関して緘口令をしき(遺体は密かに大和に送られて葬られた)、自らを大王の代理として、朝鮮半島の白村江へ出兵を命じた。




