敏達天皇
欽明天皇の後を継いだのは、大后の子で第二王子の訳語田王子だった。初めに第一王子の箭田王子が立太子していたのだが、欽明天皇の在位中に亡くなったため二年後に弟が新たに太子となり、大王位を継いだ。家臣も代替わりをして、大連には物部尾輿の子・守屋が就任、大臣には蘇我稲目の子・馬子が就任した。彼らとは別に、大王は三輪逆を信頼し重用した。三輪氏は崇神天皇の時代から大王家と縁のある古い氏族である。
この時代、蘇我馬子は父が建てた寺を焼かれたショックのほとぼりが冷めた頃に仏教の布教活動を王族や豪族の間でさかんに行った。その中でも特に仏教にハマったのが馬子が勧めに行った池辺王子の子・厩戸王だった。この頃まだほんの幼い子供であったのにも関わらず超人的な頭脳を持っていた彼に馬子は将来を期待した。
馬子は新たに仏像を祀る塔を建てたが、そこで体調を悪くした。そこで占い師に占ってもらうと、先代の時の仏の祟りだろうという結果が出た。馬子はその結果を大王につげ、大王の許可をもらって仏像を祀ったが、またしても運の悪いことに疫病が流行って死者が多数出た。物部守屋と中臣勝海(中臣鎌子の子)は、これでは先代の時と全く同じではありませんか、何もかも仏教が悪いのです、と訴えた。これには大王も同意し正式に仏教を廃止することを命じた。物部氏、中臣氏そして三輪氏は兵を集めて仏像を仏殿ごと焼き払った。さらに当てつけのように尼僧を捕らえて鞭打ちの刑にした。
しかしこの後も疫病が収まることはなく、大王もまた病にかかった。馬子は病身を押して宮に参上し、これこそ祟りです。どうか仏の力を借りさせてくださいと大王に頼んだ。大王は、お前ひとりで拝むのなら勝手にすればいい、だが周りにまで押し付けるな、と釘を刺して、尼僧を解放させた。
この後、馬子は体調が回復したが大王の病は治らなかった。大王は異母弟の池辺王子を呼び寄せ、私は父王の念願である任那復興が出来なかったがこの意志をついでくれと頼んだ。大王は太子を指名していなかったが、第一王子の押坂彦人王子もこの時まだ若すぎたからだったと思われる。そして大王は病から回復することなく亡くなった。




