欽明天皇
継体天皇の末の王子、志帰嶋王子は事実上、生まれた時から大王になることが決まっていた。少年期、青年期を父(継体天皇)や兄(安閑天皇、宣化天皇)の大王としての仕事ぶりを見ながら成長し、満を持して即位した(欽明天皇)。
旧血統と新血統を継ぐこの王子に期待をしていた大臣の蘇我稲目は、適齢期になると2人の娘を王子の妃とし、合わせて実に18人もの王子、王女を誕生させた。だが大王は露骨に蘇我びいきをすることはなく、王族、豪族の間で中立の立場をとるように努めた。太后(安閑天皇の后)であった春日山田王女に政務の手伝いを頼んだり(結局辞退されたが)、自らの大后には宣化天皇の王女・石姫王女を選び、群臣の対立を避けている。
欽明天皇の時代に仏教が伝来したが、ここで大王の中立性を端的に表しているエピソードがある。
百済の王から仏像と経文を贈られた大王は、仏教に興味を抱いたが、まず群臣に仏像を祀るべきか会議を開いて相談した。大陸文化を積極的に取り入れたい蘇我稲目大臣は賛成、国つ神が怒るから反対だとしたのが物部尾輿大連と中臣鎌子連だった。特に中臣氏は神事に携わっていたので新しい神(仏は神ではないが当時の認識はそんな感じ)を受け入れるわけにはいかなかった。そこで大王は蘇我稲目にまず試しにお前が祀ってみよと命ずる。しかしその後、折悪しく伝染病が流行り、物部尾輿はこれは祟りだ、直ちに仏像を捨て、寺を焼き払うべきだと進言し大王はそれを認めた。
欽明天皇の時代に記録された歴史はその大部分が任那のことで占められている。大王は百済の王と協力しつつ任那を新羅の侵攻から守ろうとしたが、とうとう任那の中心であった金官国が滅ぼされてしまった。大王は死の間際まで任那の復興を願いながら無念のまま亡くなった。




