武烈天皇
もしも……もしも白髪王子が白髪ではなく普通に黒髪の王子として生まれていたら。
雄略天皇も彼を太子にすることはなく、大王位を継いだのは吉備稚媛が産んだ、年長の磐城王子か星川王子になっていただろう。そうしたら吉備氏が怒って叛乱を起こすこともなく、二人の王子は王族として子孫を残していただろう。
清寧天皇は億計王・弘計王の捜索を命じたが、もし見つからなかったらどうするつもりだったのか。というかむしろ見つからない可能性の方が高かった。飯豊王女が大王の代理になったのは苦肉の策だった。結果として見つかったのは良かったが、顕宗天皇は御子が授からぬまま亡くなり、仁賢天皇にもなかなか男子が授からなかった。ようやく生まれた男子は武烈天皇となったが、この大王は御子が授からぬまま亡くなった。
かようにこの時期の大和朝廷の王位継承は綱渡り状態だったのだ。家臣もそれをぼーっと見ているわけはない。大王家の血を絶やさぬよう、王族の別の血統(継体天皇につながる)を呼び寄せておいて、綱渡りの綱が途絶えた時には交代してもらうと約束する。その準備は、清寧天皇の命を受けた頃には既に並行して行われていたと思われる。
そこで少し歴代の大王の妃を見直してみると以下のようになる。
第二十二代清寧天皇……妃なし
第二十三代顕宗天皇……王族の后が1人
第二十四代仁賢天皇……王族の后が1人、豪族の娘の妃が1人
第二十五代武烈天皇……身元不明の妃が1人
第二十六代継体天皇……王族の后が1人、豪族の娘の妃が8人
あからさまである。前に清寧天皇の妃について、大王が特別すぎる存在なので豪族も尻込みしたのかと書いたが、もっと現実的な理由として、大王に娘を差し出して取り立ててもらってもメリットを感じなかったからという方が尤もらしい。豪族たちは新しい血統に期待を寄せて姻戚関係になっているのだ。妃だけではなく、政務に関する記録も第22~25代の大王の時代のものは少ない。尊い血を持つお方としての「お飾り」な大王だったと推測される。
そういう時代の最末期の大王が武烈天皇である。
日本書紀ではこの大王が何度もおぞましい暴虐を行ってきたことを記録している。その内容を書こうとすると「R15」「残酷な描写あり」の注意書きが必要となるので省略する。
雄略天皇も暴君であったがそこには恐怖で人々を支配してやろうという政治的意図も感じられた。また、暴虐行為に対しては、それを諫めたり、あるいは命乞いをして考え直してもらうといったフォローがあったが、武烈天皇の場合にはただ狂った性癖の発露であり、それを諫めるような人間もいなかった。
奇妙なことに武烈天皇の暴虐行為は1000年後の豊臣秀次のそれと似ている。最高の地位につきながら実質的な権力を失った人間と言うのは同じ行為に走るのだろうか。不思議な相似である。
武烈天皇は十八歳で亡くなったと伝えられている。死因は不明である。




