允恭天皇
反正天皇は太子を立てず亡くなったので、群臣が集まって次の大王を誰にするか会議を行った。候補者としては反正天皇の同母弟の雄朝津間稚子宿禰、異母弟の大草香王子の二人が挙がった。履中天皇の子である市辺押磐王子は挙げられていない。まだ若すぎて候補外だったのだろう。
雄朝津間稚子宿禰は「宿禰」という姓が名前についていることから、臣下に下った王子だったと思われる。しかし雄朝津間稚子宿禰のほうが年上であることから、群臣はこちらに次の大王になって頂こうと決定した。
しかし宿禰は病弱を理由に群臣の頼みを辞退する。彼はある年頃から病気に悩まされ、それを克服しようと民間療法の荒療治をしたせいで余計に身体を悪くしてしまい、父(仁徳天皇)や兄たちから馬鹿者とそしらていた。それですっかり意気消沈して将来をあきらめ臣下に下ったのだ。
群臣は何度か日を改めて頼みに来たが、宿禰はその度に辞退した。そんなやりとりを傍で聞いていた妃の忍坂大中姫は宿禰の説得にまわった。彼女は応神天皇の子で息長氏と縁の深い稚野毛二派王子の娘である。大王への野心もなく病気がちな夫の傍で尽くす人生だと思っていたのが、転がり込んできた機会に心躍らぬ訳がない。彼女の必死に頼み込む姿にとうとう宿禰も心を動かされ、大王になることを決めた。
即位後、大王は新羅の医者に来てもらい自分の身体を診てもらった。この医者は名医だったのか、処方する薬との相性がよかったのか、大王の体調はみるみる快復していった。よっぽど嬉しかったのだろう、大王は傍で支えてくれた大后をたっぷりと愛した。二人の間には九人の子供が産まれた。
ところが大王はまだまだ元気が有り余っていて、新しい妃として忍坂大中姫の妹の弟姫を呼び寄せた。弟姫は地元でも評判の美人だった。しかし大后にしてみれば、それまで妃は自分一人だったのに他の女、しかも妹に鼻の下を伸ばされるのはあまりいい気分ではない。なので大王の宮からは少し離れたところに住まわせたのだが、あろうことか大王は大后の七人目の子の大泊瀬幼武のお産のときにその目を盗むようにして弟姫の宮に通ったのだ。後から知った大后は激怒。これには大王も悪かった悪かったと平謝り。弟姫の宮ももっと遠くにした。けれども大王の欲望はまだ止まらず、狩りに行く、と言う名目で弟姫の宮に通いまくって、大后に知られていい加減にして下さいと叱りつけられる羽目になった。なんだかんだでいいお后様だったと筆者は思う。
允恭天皇の業績は氏姓の乱れを正したことと記録されている。自分自身、宿禰の姓が付く大王というややこしい存在だったので気になったのだろう。ただしその手段は「クガタチ」。熱湯に手を入れて火傷をすれば嘘をついていて火傷しなければ正直に言っているという占いだ。また迷信を信じたのか允恭天皇と言いたいところだが、実際には手を入れようとするときの態度でウソかホントかを判別していたのだろう。
大王は第一王子の木梨軽王子を太子として指名した。この頃には市辺押磐王子もそれなりの年齢になっていたはずだが太子候補として名は挙げられていない。挙げられたとしても忍坂大中姫がそれを許さなかっただろう。また、市辺押磐王子の母親は黒媛なので不倫の子である可能性もあったために黙殺されたのかもしれない。




