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7 超限度と音

 人は、理由が分かるものだけに心を動かされるわけではない。

 むしろ――説明のつかないものほど、深く残ることがある。

 好きだから、楽しいから、心が震えたから。

 そんな曖昧なものは、この世界ではどこか曖昧なままに扱われる。

 それでも、確かに存在する感覚がある。

 これは、その感覚に初めて触れた日の話。


「……読書」


 そう……と龍星が相づちを打つ前に、青が茶化した。


「じゃあ、最近読んだ本の名前、ゆうてみ?」


 春比古は苦笑しながら、鞄の中から端末機を取り出す。


「なんや、履歴見な、題名が思い出せないんかい」


 青のからかいを聞き流して、春比古は履歴をチェックする。


「あー……『少人数教育の指導と実践』」


「……それって……教科書じゃないの。私も読んだよ」


 三帆が鋭いつっこみを入れる。


「あー、じゃあ……『幼児教育における……』」


 春比古は最後まで本の題名を言えなかった。


「それも教科書やろ。オレも読んだ」


「あはは……」


 そんなふうにからかわれているのに、春比古の笑い声は不思議と明るかった。

 頭を掻きながら、龍星の方を見る。


「僕、趣味ってないんですよね。でも、それじゃあみんな納得しないから、一応『読書』って言ってるんですけど……」


「もう少し、らしいことを言えって」


「たとえば?」


 逆に聞き返されて、青が慌てる。


「え? ああ……『子どもと遊ぶ』とか?」


「それって、趣味? 教育学部なんだから、本業じゃないの?」


 春比古ではなく、三帆が突っ込む。


「ええやん。春比古はそれがいっちゃん好きなんやから、そうしとけばええやろ」


「それだったら、『読書・ただし教育学関係』の方がマシじゃない?」


「それこそ、本業やろ?」


「だけど……」


 当の春比古を置いてきぼりにして、青と三帆で盛り上がっている。そんな二人を呆れるでもなく楽しげに眺めている春比古に、龍星が尋ねる。


「子どもと遊ぶのが好きなの?」


「そうなんです。定期的に行く教育実習が楽しみで。僕、子どもと遊んだり、子どもになにか教えたりするの、すごく好きなんですよね。それを言うと、仕事と趣味を一緒にするな……とか言われちゃうんですけど」


 春比古は、また、頭を掻きながら照れたように言う。


「仕事を楽しめるのなら、それが一番いいんじゃないか?」


「そんな甘い仕事じゃないって、先輩たちにはよく言われるんですけど」


「いい加減にやろうとしているわけじゃないんだろ。だったら、楽しんだっていいと思うよ。楽しそうに教えてくれる先生のほうが、仏頂面の先生より、子どもにとってもいいと思うし」


 春比古が龍星の顔をまじまじと見た。


「え? なに?」


「龍星さんて……頭がいいだけじゃなくて、優しいんですね」


「……そんなことはないよ」


 春比古の賞賛に、気まずい思いで地面を見つめる。

 自分は優しいのではなく、単に察しがいいだけだ。相手のほしがる言葉も、望んでいることも分かってしまう。

 その結果、誰もが「龍星は優しい」と評価する。その評価は間違っていると思うが、不都合でもないので、最近ではいちいち訂正していない。


「優しいですよ。こんな優しい人がお医者さんなら、安心ですよ」


 さらに賞賛されて、ますます気まずくなる。

 自分は、春比古のように医者という仕事に打ち込めないだろう。だからといって、趣味にもそれほどの思い入れがあるわけではない。

 紙飛行機を作ったり飛ばしたりするのは好きだが、それを止めろと言われても、特に困ったりはしないと思う。また別のヒマつぶし方法を考えるだけだ。


 生き甲斐とか、人生の意義とか、つきつめて考えたことはない。……考えてもしかたのないことだから。

 この世界で、それなりに快適に人生が過ごせれば……それでいい。自分たちは、ここから外に出ることは……一生ないのだから。



 暗いステージの中央、ギタリストはスポットライトの中に浮かび上がる。


 挨拶もなしに弾き始めた彼の目に、観客は映っているのかいないのか……。

 黒いシャツにスラックス。長めの髪が表情を半ば隠してしまう。全体に黒い印象の中、手入れの行き届いたクラシックギターだけが、明かりのすべてを集めているようだった。


 彼が身体を揺らすたびに、黒い髪が頬にかかる。

 時折、愛しい恋人を抱くように、ギターに頬を寄せる。

 弦を押さえる左手の指はギターのネックの上を自由自在に辷り、弦を弾く右の指は、天衣無縫にボディの上を舞う。

 

 静かな曲は息を潜めるように、そして激しい曲はそれと同じリズムの鼓動を刻みながら、龍星は一樹のギターを聴いていた。


 音楽の生演奏を聴いたのは、生まれてはじめてだった。録音されたものは頻繁に耳にしたし、演奏している演奏家の姿を映像で見たことは何度かある。

 だが、この世界で、生演奏を聴く機会は自分から望まない限りチャンスはない。そして、龍星は、今まで音楽というものに興味を持ったことがなかった。


 けれども、一樹のギターは龍星の心を震わせた。今までに経験したことのない感動が、胸に染み渡る。

 青の言った「一樹さんのギターはすごいんやで」という言葉を、リアルに実感する。

 一樹のギターだからそう感じるのか、生まれてはじめて生演奏を聴いたことによるものなのか……いつもならするだろうそんな分析を、龍星にさせないくらい一樹のギターは迫力があった。


 龍星は、今いるこの場所でなく、宇宙のただ中に自分が放り出されたような気分になった。

 一樹は二十曲ほど演奏して、一時間ほどでコンサートは終わった。すぐには立つことも出来ないでいる龍星に、隣に座った青が耳打ちした。


「一樹さんとお疲れさん会やるよって、龍星も帰らんといてな」


 龍星は、無意識にうなずいていた。


 会場が明るくなる。


 舞台の上に、もう一樹の姿はない。椅子がひとつと、一樹が足を乗せていた小さな台が残されているだけだ。

 背後では、帰る客に三帆たちがあいさつをしている。

 現実が戻ってくると、ここが確かに、この世界の中の、しかも小さな喫茶店であることをあらためて思い知らされる。

 ふと、見上げた視線の先には、もちろん宇宙空間も空もなく、少し薄汚れた天井が見えた。ふつうの喫茶店と違うのは、舞台用の照明器具がいくつかぶら下がっていることだけ。

 龍星の席は、ステージの一番前の中央。


「どうせなら、いい席で聴かんと」


 と青に言われ、開演の一時間も前から並んで手に入れた場所だ。

 確かに、この喫茶店で聴く上では、いい席だったのかもしれないが……。音楽にとっていい条件とは言えないだろう。

 場所は、音響効果のことなどなにも考えられていないただの喫茶店。座席も、喫茶店の椅子と、あとは借りてきたらしいパイプ椅子。

 人の足音も、椅子の軋みも、あるいは外の喧噪さえ、観客の耳には入ってきている。

 図書館に所蔵されている映像のほうが、比べものにはならないくらい条件は良かったはずだ。それらのすべては、ここではない場所で、遥か昔に作られたもの。

 「演奏家」という職業の人が、専用のホールで演奏をしていたものなのだから。

 それでも……。今まで見たどの映像よりも、深い感動を一樹のギターは龍星に伝えた。

 やはり……生演奏だからなのか……それとも……。


「なんや、ぼーっとしとるな」


 座席に座り込んだままの龍星に、青が声をかけた。彼は、今まで玄関口で、帰る客にあいさつをしていたらしい。


「あ……」


「どうしたん?」


 さっきまで座っていた自分の席にもう一度座り直して、青が尋ねる。


「ああ……考えていて……」


「なにを?」


「一樹さんのギター……すごく良かった。こんなに感動したのは、生まれてはじめてだ」


「そら、良かったな。誘った甲斐があったちゅーもんや」


 と、青はうれしそうに笑う。

 けれど、龍星の心は複雑だった。


「すごく感動したけど……その理由が……はっきりしない」

 なぜ感動したのか。

 そう問われて、答えられることばかりではない。

 理屈で説明できるものは、安心できる。

 けれど、説明できないものは、少しだけ怖い。

 それでも――その「分からなさ」は、

 確かに心の奥に残り続ける。

 言葉にできないまま、消えずに残るもの。

 それを、人は何と呼ぶのだろうか。

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