15 禁忌の定義と羨望の正体
「当たり前」だと思っていたことが、ある日を境に、そうではなくなる。
龍星の中で、これまで疑うことのなかった価値観が、静かに崩れはじめます。
これはまだ、“結論”ではなく——
その手前の物語です。
呼び出した教科書に目を通す。
「トランスジェンダー」の診断方法について、何章にも渡って説明されている。
その後、付け足しのように「同性愛者の現状」というコラムがあった。
同性愛者は、自分がそれであることはひた隠しに隠す。
大半は、三十歳までは、恋人を作ってこっそりとつき合う。非公認のコミュニティーもあり、摘発されたこともあるが、ほとぼりが冷めると復活する。
子どもがいれば、離婚しても再婚しなくてすむ、という設定を逆手に取り、早々に子供を作り、その後離婚し、同性の恋人と関係を再開する……という者も多い。
もっとも、それが、政府に知られれば、罪に問われる。
以前、これを読んだとき、龍星は何も感じなかった。そういう人もいるんだな……と、思っただけで。
だが今は、読んだ瞬間、怒りの感情がわき上がった。
――理不尽にもほどがあるだろう……と。
ただ、好きな人と一緒にいたいと思うだけで、罪になる――そんなことを「当たり前」と思っていた自分にも、腹が立った。
龍星は、あらためて、かいま見た一樹と青の様子を思い出す。
ちくり……と、胸が痛んだ。
今まで感じたことのない痛み。
何人かの女性と付き合い、そしてフラれた。その時でも自分は何も感じなかったし、周囲の人間のように、二十五歳までになんとかしなければ……という焦りもなかった。
いずれ、政府の勧めるままに見合いをして……この世界の法律に従って三十歳までに結婚するのだろう……。そんなふうに思っていたし、そのことに疑問も不満もなかった。
だが今は……それをむなしいと感じる。
だから――。
おそらく、この痛みの原因は……羨望。
「……いや、憧れが正しいのか……」
思わずつぶやいて、それが正しいと思う。
嫉妬はしていない。
龍星が青や一樹に感じているものは「恋心」ではないから。
名前をつけるなら、青に対しては「友情」。
公演で、しなやかに踊る姿を見て心惹かれた。
青の不思議な言葉を自分だけが理解できることも、龍星には心地よかった。
これから先も、ずっと青の近くにいられたらいい……と願っている。
そして、一樹に対する自分の立場を表すとしたら、一番近いのは、「ファン」だろう。
一樹のギターには、強烈な印象を受けた。ギターを弾いている姿から、目が離せなかった。一樹の音は、今でも龍星の心の中で鳴り続けているような気さえする。
その二人が禁断の恋をしている……その事実を知ったとき、今まで何にも感じていなかった「同性愛者の現状」が、自分の身近な問題として浮上してきたのだ。
嫌悪感は一切感じない……それどころか、「応援したい」とさえ思う。
そこまで考えたとき、龍星の顔に自嘲の笑みが浮かんだ。
「恋愛映画にハマる文香と同じじゃないか」
だが、これは恋愛映画でも小説でもなく、現実だ。
政府に知られたら、罪に問われる。
その時、ふと、一樹のコンサート後の会話を思い出した。
もしかしたら、一樹のギター公演のことで、あそこまで心配していたのは、このこともあったからだろうか?
青はまだ二十一歳だが、一樹は二十七歳。三十歳になったとき、一樹はどうするのだろうか? 青と別れて、誰かと結婚するのだろうか?
そこまで考えて、龍星は首を横に振った。
「僕が考えたって、どうにもならない」
龍星は立ち上がり、窓の外を見た。
日はすっかり落ち、街には街灯が灯っている。
空には、星も月も見えなかった。たぶん、今日の天気は「曇」と設定されているのだろう。
この世界では気温も湿度も完全に「設定」で動く。
ここには四季があり、天気もその日によって違う。それは、夜も同じで、晴れなら星空がはっきりと見え、曇の日には星や月が見えにくくなる。
月も満ち欠けをし、星も季節によって星座の位置を変える。……どれも作り物だが……。
だからかもしれない……と龍星は思いつく。
周りをすべて作り物に囲まれているから、「恋」さえも、作り物に思えてしまうのかもしれない。
その夜、母親が自室に引き上げてから、龍星は文香と映画を見た。
映画自体は、それほど面白いとは思わなかったが……龍星は、さっき、自分が思いついたことは正しかったのだと、確信してしまった。
一樹と青の関係を知ったときに、自分が感じた気持ち。それは、今、映画を見てもらい泣きしている文香と同じだと。
文香は、
「いいなあ~。私もこんな恋愛がしたい」
と、つぶやいた。
自分も同じだとしたら?
禁忌でありながら、その障害を乗り越えて、恋人同士になっている二人がうらやましいのだろうか? もしそうなら……。
「……ばかばかしい」
思わず口に出してしまって、文香に睨まれる。
「いや、映画がじゃなくて、あいつが……」
二人の恋を阻止しようとしている悪役をあわてて指し示す。
「そうよね! あいつ、むかつくよね!」
文香がごまかされてくれたことにほっとしながら、龍星はもう一度自分に言い聞かす。「情けないぞ」と。
恋を夢見る幼い少女ではないのだ。いい歳をして、「禁断の恋」に憧れるなど……。
文香は、恋愛小説に夢中になっても、物語と現実をごっちゃにしたりはしない。そこまで愚かではない。
知り合いの恋愛に憧れるだけ……いい大人の自分が、それでいいのか?
映画を見終わってから、自室に引き上げた。
カーテンを開けた窓から見える空は、さっきと同じ曇天の夜空。星ひとつ見えない。
偽物の星なら、ないほうがマシだ。……そう思いながらも、一面灰色の空は、ひどく陰鬱で寂しいものに、龍星の目には映った。
翌日の昼休み。
龍星は、食堂に行くことをためらった。特に約束しているわけではないが、そこに行けば、青たちと会う可能性が「大」になる。
青と顔を合わせるのが気まずい。
昨日、公園を出たあとで、青の端末にメールを入れた。DVDを返し忘れてしまったこと。できれば返しておいて欲しい……と。
返信はすぐに来て、「もう返しておいた」というものだった。
龍星はほっとしたような、がっかりしたような複雑な気持ちを味わった。最初からメールにしておけば、あんな場面に出くわすこともなく、こんなふうに悩む必要もなかったのに……と、いったんは、自分の融通のきかなさに腹が立った。
だが、眠れない夜を過ごすうちに、それはそれでよかったのかもしれない……と思い始めた。あんなことがなければ、自分は「恋愛」について、ここまで深く考えなかった。
一生考えなかったかもしれないし、取り返しがつかない年齢になってから気づいてしまうかもしれない。
一生気づかなければ、人生は平穏だっただろうが、きっと寂しいものだったろう。……その寂しさに気づかないくらいに。
そして、もっと気づくのが遅かったら……。例えば、見合い等で知り合った女性と結婚して子どももできてしまった頃に、恋愛に憧れたりしたら……。きっと、自分も、そして自分の家族も傷つけてしまう結果になる。
だとしたら、まだ、時間的な余裕のある今、それに気づけたことに感謝すべきなのかもしれない。
少なくとも、後悔はしていない。青に出会えたことも、一樹の存在を知ることができたことも。
とはいえ、昨日の今日で、青と顔を合わせて平静でいられる自信がない。龍星が覗き見をしてしまったことを、青は知らないだろう。だから、青は昨日と同じように自分に接するはずで、急に避けたりしたら、逆にヘンに思われてしまう。
一番いいのは、何もなかったふりをして、いつもと同じように過ごすこと……。
今日一日くらいなら、食堂に行かなくても言い訳がつくだろうが、日にちを空けると、かえって気まずさが増してしまう気がする。
向き合わなければならないときが来たのだ。
「食堂に行こう」
龍星は小さな声でつぶやいた。
声に出さないと、決心がにぶってしまいそうだったから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
気づいてしまったことは、なかったことにはできません。
曇った空の下で、龍星はひとつの決断をします。
次回、物語は少し動き出します。




