10 ギターとオケアノス
人は、どこまでを「自由」と呼べるのだろう。
決められた年齢、決められた選択、決められた未来。
それでも人は恋をし、迷い、抗おうとする。
この世界には、空がある。
けれどそれは、本物ではない。
見上げれば美しく輝く星々も、その向こうにあるはずの果てしない宇宙も、決して触れることはできない。
それでも人は、見えないものに憧れる。
籠の中にいてなお、雲を恋うように。
たまたま、静かになったときだったのか、その言葉はその場にいた全員の耳に飛び込み、その場の空気が凍った。
龍星は、こんな場所でプロポーズする春比古の度胸に唖然として絶句していたのだが、青たちにとっては驚くことではなかったらしい。
「また、亜依さんにプロポーズかいな?」
「春比古君、何回目?」
「ええと……」
尋ねられた春比古は、指を折って数えてる。
「亜依、何回目だ?」
一樹が亜依に尋ねる。
「さあ……。十回までは数えてたんだけど、それからあとは数えるの止めちゃったから」
と、亜依が首を傾げる。
「つーことは、少なくとも十回以上断られとんのやろ? いいかげん、諦めいな」
青が、笑いを含んだ声で言う。
「僕は、諦めません!」
酔った人間の妙な迫力で、春比古が亜依に言う。
「第一、亜依さん、もう三十歳じゃないですか」
その言葉を聞いて、思わず亜依のほうに振り返ってしまった。
三十歳は、この世界の人間にとって特別な意味を持つ。だから、その話題は――特に、独身の人間にとっては――鬼門のはずだ。
「まだ、二十九よ」
亜依が怒りを抑えた低い声で言う。
「でも、もうすぐ三十でしょ?」
黙ってしまった亜依の代わりに、一樹が答える。
「亜依の誕生日は、十二月だな」
言われた瞬間、亜依が「よけいなことを」という表情で一樹を睨む。
「あと半年じゃないですか。強制的に結婚されられちゃいますよ。よく知らない人と結婚するくらいなら、僕でもいいじゃないですか」
「八つも年下なんて、冗談じゃないわよ。しかも、まだ学生だし」
亜依に断言され、春比古ががっくりと肩を落とす。
「……なんで……ダメなんだろ……」
小さなつぶやきに、龍星ははっと春比古を見る。泣いているのではないか……と思ったのだ。けれども、うつむいてしまっている春比古の顔は見えなかった。
「あー、なんや、いい気持ちやな~」
街灯に照らされた薄暗い道を、酔っているとは思えない軽やかな足取りで歩きながら、青が言った。軽いステップでも踏んでいるようなその動きは、公園で見た青の舞踏を思い出させた。
「あんまり大きな声を出すなよ。もう夜中なんだから」
一応住宅街なので、声を潜めて龍星が注意を促す。
打ち上げがお開きになったのは深夜。喫茶店が住居にもなっているマスター以外はそれぞれ自宅に帰ることになる。この時間ではもうリニアバスの運行はない。
青と龍星以外は、喫茶店から比較的近い場所に自宅があった。三帆を隣に住んでいる一樹が、亜依を春比古が送っていくのがいつものことらしい。
青の家も、青とは公園を挟んで反対の位置にある龍星の家も歩けば一時間くらいになる場所だ。
時によって青は喫茶店に泊まって始発で帰ることもあったらしいが、今日は龍星がいるので二人で歩いて帰ることになった。
「亜依さん……なんで結婚しなかったんだろう。美人だし成績優秀なんだから、相手はいくらでもいただろうに」
ふだんの龍星なら、そんなプライバシーに関わることを、軽々しく口にしない。ましてや、本人のいないところで話題にするなど、あり得ない。
それを言わせてしまったのは、酔いのせいなのか、それとも――。
「さあな。オレは亜依さんやないから、分からへんよ」
案の定、青の返事は素っ気なかった。気分を害しているのがありありと分かる。
言われて、自分が何故そんなことを言ったのか、もうひとつの理由を思いついた。
「ごめん。酔ってるみたいだ。それと……他人事じゃないなとも、思ったのかもしれない」
「龍星は……二十三歳か。あと二年やな」
青の口調は、少し柔らかくなっていた。
「……うん」
「めんどくさい『設定』や、オレも思うわ」
この世界でもうひとつの意味を持つ年齢――それが、二十五歳だ。
人口が多いとは言えないこの世界では、結婚と育児が義務づけられている。そして、たいていの人間は、恋愛して、結婚する……というコースを選ぶ――二十五歳までに。
「龍星は、『恋人』おるん?」
聞かなくても分かるだろう……と思いながら、首を横に振る。
「いない。いないし、あと二年で見つけられる気がしない」
すると、青はにやっと笑った。
「さっきの言葉、まんま龍星に返すわ。龍星は背も高くて、顔も悪くない。しかも医学生なんやから、相手はいくらでもおるやろ? 告白されたことも、一度や二度じゃないはずや」
「……それは、あるよ。つきあったことも、何度かあるけど……長続きしない」
高校生の頃から大学の一、二年までは、毎月のように告白されていた。だが、つきあっても、すぐに別れてしまう。今までの最長記録は、せいぜい三か月だ。
そういうことが知れ渡っているのか、最近では告白されることも少なくなった。それを残念だとも、つまらないとも思わない自分は、とことん恋愛には向いてないのかもしれない。
「結局、集団見合いで出会った相手と結婚することになるのかな、僕みたいなのは」
自由に恋愛を楽しめるのは二十五歳まで。
「二十五過ぎたら、見合い行きやもんなぁ」
「……うん」
「で、三十過ぎたら、アウト。それまでになんとかしたい思うんが、人情やろな」
春比古が、亜依にプロポーズしたのも、それが理由だろう。
そんなことを考えていたら、青が不意に真面目な口調で言った。
「前に、結婚に関する法律を変えたらどうやって、法案が出されたことがあったやん?」
「子どもの人数の制限をなくすってやつ?」
十年くらい前、そんな法案が出されて、話題になったことがある。龍星はまだ中等学校にいた頃だったので、あまり関心がなかったが、おおよそのことは知っている。
「設定」で、子どもは三人までと決められている。その制限をなくそうという法案だった。
子どもが好きな夫婦が三人以上の子どもを育てれば人数の維持は出来るという理由で、結婚を強制する法律の撤廃も含めての提案だった。
「あれ、却下されたのはなんでや? オレはまだガキやったから、よう憶えてへんのや」
「多分……遺伝子の問題だったと思う」
「遺伝子?」
「つまり、同じ両親を持つ兄弟は、遺伝子が似てしまうだろう? この世界は人口が少ないから、同じ遺伝子を持つ人間が多くなるのはまずいってことだと思う」
青は首をかしげる。
「それ、本当のことなん? 医学部の龍星なら、分かるやろ?」
「医学部と言っても……」
自分はただの医学生。遺伝子の専門家ではないから、訊かれても困る……そう答えようとしたのに、口は勝手に違うことを言っていた。
「確証はないよ。そんなの、長期的に見ないと本当のことは分からない。ただ、その方が安全だってことだろ。ずっとその『設定』でやってきて、不都合もないから続けているだけ……そんなところだと思う」
「そんな程度のことで、オレらは、悩んだり苦しんだりさせられてるっちゅうわけか。やりきれんな」
ひどく苦々しい口調に、龍星は思わず訊いてしまった。――やはり、自分は酔っているな、と思いながら。
「青には、いるの? ……恋人」
青は、空を見上げながらつぶやいた。
「おらんよ。けど……好きな人はいる。……片思い……やけど」
空には星がきらめいていた。
「星が綺麗やな……」
つぶやいた青に、龍星は苦い口調で返す。
「偽物だけどね」
「……ああ……そうやな……」
龍星の前を歩いていた青はふいに立ち止まり、振り返ると言った。
「普通に暮らしていると、忘れてしまうやん、空が偽物だってこと。けど、思い出したんや。周りには宇宙があるっちゅうこと。龍星が『宇宙を感じる』てゆうたから」
「そう……壁の向こうには本物の宇宙がある。でも、僕たちには見えない。見えているのは、全部偽物の空だ」
「見たいんかい? 本物の空を」
青の問いに龍星はすぐに答えることが出来なかった。自分でも自分の気持ちが分からなかった。本物の空を見たいのか、見たくないのか……この世界での暮らしに不満があるのかないのか……。
「オレは、オケアノスが見たいな」
青がつぶやいた。
「うん。そうだね」
龍星がうなずく。
すると、青はくすくすと笑った。
「なに?」
「やっぱ、龍星はサイコーや」
「なんで?」
「オケアノスが見たいて、いろんなヤツにゆうたけど……。たいていのヤツは、どういう意味って聞き返す。聞き返さんとうなずくヤツもいるけど、意味が分かってうなずいたんとちゃうねん。面倒やから相づちを打っただけ。けど、龍星は意味が分かって『うん』って言ったんやろ?」
まっすぐに見つめられて、龍星は少しだけ焦った。
「ええと……正確には、どっちの意味だか分からなかったけど……」
オケアノスは大河や大洋を擬人化した神の名前。だから、単純に「海」や「川」と考えてもいいが、「地の果て」という意味もある。
「……どっちにしても、ここでは見られないから」
「『地の果て』って意味や……」
空を見上げて、青が言う。
果てしない空のように見えて……実際にそこまで行けばスクリーンにぶつかってしまうはずだ。「果てない空」ではない。
空も、海も、川も……この世界にはない。どんなに憧れても、見ることはできない。それでも……。
「ここで生きるしかない。僕たちは……」
答えて、龍星は空を見上げた。
墨色の空に、きらめく星々。とても美しい星空だ。これしか見ることが出来ないのなら、龍星たちにとってはこれが本物の星空なのかもしれない。けれど……。
立ち止まり、星空を見上げている龍星に、青がつぶやいた。
「『籠鳥、雲を恋う』」
与えられた世界の中で生きることは、必ずしも不幸ではない。
そこに温もりがあり、笑いがあり、誰かと共に歩む時間があるのなら。
けれど、人はときどき思い出してしまう。
本当はもっと遠くへ行けるのではないかと。
見たことのない景色があるのではないかと。
それが叶わない願いだとしても、その想いは消えない。
偽物の空の下で、 本物を夢見ることをやめられないまま。
――籠鳥、雲を恋う。




