第3章【はじまりの音】後編
オレンジ色に染まる夕焼けが、雨上がりで濡れた路面を照らしていた。
水たまりには、空の色と町の明かりがぼんやりと映っている。風が吹くたび、濡れたアスファルトの匂いが混ざった。
小さな楽器店の前に立つ澄は、しばらく扉を見つめていた。
初めて入る楽器店。
自分にはまだ、少し遠い場所のように思える。
それでも、数日前に路地の奥で聞いたギターの音が、ずっと胸の中に残っていた。
荒々しくて、激しくて。
けれど、不思議なほど温かかった音。
あの音が、どこから生まれているのか知りたかった。
澄は小さく息を吸うと、そっと店の入り口に手をかけた。
扉を開けると、ほのかに木の香りがした。
店内は決して新しくはなかった。床には細かな傷があり、棚には古びた弦の箱やピックが並んでいる。けれど、その空間にはどこか落ち着いた温もりがあった。
壁には、数本のギターが掛かっていた。
エレキギター。
ベース。
そして、アコースティックギター。
澄はゆっくりと店内を見回した。
今は昔とは違い、楽器店に行かなくても楽器は買える。画面を見て、説明を読んで、ボタンを押せば、家に届く。
けれど澄は、自分の目で見たかった。
触れて、確かめたかった。
あの音に少しでも近づけるものを、自分で見つけたかった。
その想いが、ひとつの出会いを引き寄せた。
店の壁に掛かった数本のギターの中で、澄は一本のギターに目を奪われた。
木目の美しいギターだった。
派手な装飾があるわけではない。
有名なメーカーなのかも分からない。
けれど、なぜか他のギターとは違って見えた。
まるで、そのギターだけが静かにこちらを見ているようだった。
カウンターの奥にいた作造は、そんな澄の様子を黙って見ていた。
少女は何も言わない。
けれど、その目は確かに一本のギターを捉えている。
作造は、胸の奥で小さく思った。
――もしかしたら、この子にも音があるのかもしれん。
「そのギターが気になるのかい?」
声をかけられ、澄は少し驚いたように振り返り少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら答えた。
「えっと……はい。なんだか目が離せないと言うか、頭の中で音がしたような不思議な感じがして。」
その言葉に、作造はわずかに目を細めた。
楽器を見て、そう言う者は多くない。
値段でも、見た目でも、流行りでもない。
何かを感じている目だった。
作造は壁からそのギターを下ろした。
「弾いてみるかい?」
澄は戸惑いながらも、こくりと頷いた。
両手でギターを受け取る。思っていたよりも軽く、けれど確かな重みがあった。木の感触が、手のひらに静かに伝わってくる。
ゆっくりと椅子に腰を下ろし、ギターを体に預けた。
どう構えればいいのかも分からない。
どこを押さえればいいのかも分からない。
それでも澄は、そっと弦に指をかけた。
軽く弾く。
ポーン……
静かな音が、店の中に響いた。
その瞬間。
澄の胸の奥で、何かが小さく灯った。
音が、体の内側に触れたような気がした。
ただ弦を鳴らしただけなのに、その響きはまっすぐ澄の中へ入ってきた。胸の奥の、まだ自分でも知らなかった場所に、小さな明かりがともる。
――始まりの音が聞こえる。
作造が静かに尋ねた。
「どうだい?」
澄は少し考えたあと、感じたままに答えた。
「弾いた時に……何て言えばいいんだろう。自分の中で、音みたいなものが聞こえて……なんか、不思議な感覚です」
作造はその言葉に、少し驚いた。
この子は、自分の中にある音が聞こえるのかもしれない。
そう思った。
「このギターって、いくらするんですか?」
値札がなかったギターの値段を澄が尋ねると、作造は少し悩んだような表情をした。 そして澄に「予算はいくらなんだい?」と尋ねた。
高校生にとって、ギターは簡単に買えるものではない。
澄は数日前、両親にギターを始めたいという想いを伝えていた。
小さい頃から、自分から何かをやりたいと言うことがほとんどなかった澄が、初めて真剣な顔で伝えてきた想いだった。
両親は驚いたが、その目を見て、応援してあげたいと思った。少しだけなら、とお金も援助してくれていた。
「これだけです。」
澄が答えると作造は「その金額だと、あの隣のギターなら買えるけど、どうしてこのギターなんだい?」と再び尋ねた。
「このギターの音を聞いた時のあの感覚がこのギターだって教えてくれてるようだったから…。」
そう言うと、作造は「そうか。これは他のとは少し違ってね…本当ならこの金額では売ってあげる事はできないんだけど…」と言いはしたが、澄が言った音の感覚に作造も何かを感じ、持っている額より少し安い値を提示してくれた。
「えっ、でも……」
「その代わり、大事に弾いてやってくれ」
そう言って、作造は必要な物もいくつか用意してくれた。ピック、替えの弦、簡単なコード表。
澄は何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当に、大事にします」
その顔は、店に入ってきた時よりもずっと明るかった。
ギターを抱えて店を出ると、雨上がりの町はいつもより少しだけ違って見えた。
濡れた路面に夕焼けが映っている。
商店街の明かりが、ひとつ、またひとつと灯り始めている。
帰り道、澄は何度もギターケースを見た。嬉しくて、胸が落ち着かなかった。
作造は店の中から、その後ろ姿を見送っていた。
――あの子は、どんな音を奏でていくのか。
今日という日の出会いに、作造もまた静かな喜びを感じていた。
ギターを買った日から、澄の毎日は少しづつ変わり始めた。
学校から帰ると、まずギターケースを開ける。
宿題よりも先に、弦に触れたくなった。
最初は、うまく弾けなかった。
弦を押さえる指は痛い。
音は綺麗に鳴らない。
コード表を見ても、どこをどう押さえればいいのか分からない。
吹奏楽部の友達に聞いた。
「コードって何? どう見るの?表を見ても意味が分からなくて」
「そこから?」
友達は笑ったが、馬鹿にするような笑いではなかった。
「ここが弦で、ここがフレット。黒い丸が押さえる場所。ほら、こう見るんよ」
友達に教えてもらい、澄はようやくコード表の意味を理解した。
それからは、毎日のように弾き続けた。
C。
G。
Em。
D。
指を置いて、鳴らす。
うまく鳴らなくて、もう一度押さえる。
ビリビリと濁った音が出る。
それでもまた弾く。
指先は赤くなり、やがて硬くなっていった。
最初は痛かったはずなのに、いつの間にかその痛みさえ、少し嬉しく感じるようになっていた。
音が鳴るたびに、胸の奥が温かくなる。
まだ下手だった。
まだ何も弾けていなかった。
それでも澄は、ただ純粋に楽しかった。
ある日、澄は商店街へ向かった。
あの日、路地の奥で聞いた音をもう一度聞きたかった。
街灯の下。
あの男が座っていた場所。
けれど、そこに男の姿はなかった。
澄は何度もその場所を訪れた。
学校帰りに。
休日の夕方に。
雨上がりの夜に。
けれど、あの音には二度と出会えなかった。
それでも、澄はその場所に立つたび、あの日の音を思い出した。
荒々しくて、激しくて。
けれど、どこか温かかった音。
いつか自分も、あんなふうに誰かの中に残る音を鳴らせるのだろうか。
そんなことを、少しだけ考えるようになっていた。
時間は流れ、澄は高校三年生になった。
ギターは相変わらず部屋の中にあった。傷も少し増えた。弦を替えることにも慣れ、楽譜を見なくても曲を弾けるようになっていた。
そんなある日の夜。
澄は何となくテレビをつけた。
画面の中では、音楽番組が流れていた。次に紹介されたのは、若手のアーティストだった。
何気なく見ていた澄の手が、止まる。
スピーカーから流れてきた音。
鋭く、激しく、空気を切り裂くようなアコースティックギターの音。
けれど、その奥には確かに温もりがあった。
澄の胸が大きく揺れた。
この音を、知っている。
あの日、商店街の路地の奥。
街灯の下で聞いた、あの音。
画面の中でギターを弾く男の姿を、澄は食い入るように見つめた。
男は、あの時より少し大人びて見えた。けれど、音は間違いなく同じだった。
番組の司会者が、その名前を告げる。
「今、注目を集めているアーティスト――」
澄は息を止めた。
男の名は――【響】




