第2章【創音】
今から四十年ほど前になるだろうか。
まだ作造が二十代前半だった頃、世の中はまさにバンドブームの絶頂期だった。
テレビをつければ、派手な衣装をまとったバンドが歌っていた。雑誌の表紙にはギターを構えた若者たちが並び、町のあちこちらには、楽器を背負った人や誰かが鳴らすアンプの音が聞こえてくるような時代だった。
この海と山に囲まれた小さな町も、例外ではなかった。
駅前の広場。
商店街の2F店舗スペース。
そして、小さなライブハウス。
夜になれば、どこかで必ず誰かが音を鳴らしていた。
作造も、その中の一人だった。
当時の作造は、ベーシストとしてステージに立っていた。大きな体ではなかったが、ひとたびベースを構えると、その存在感は誰よりも強かった。
派手に動き回るわけではない。
客席に向かって叫ぶわけでもない。
それでも、作造の音は人の耳を引きつけた。
太く、重く、けれど決して鈍くない。
ドラムに寄り添いながら、曲全体を前へ押し出すようなグルーヴ。
荒々しいギターの音も、突き抜けるボーカルの声も、作造のベースがあってこそ生きていた。
パワフルでありながら、正確。
熱を持ちながら、決して崩れない。
その演奏は、いつしか町のバンドマンたちの間で噂になった。
「作造のベースが入ると、曲が締まる」
「あいつがおるだけで、バンドの音が変わる」
「一回でええけぇ、一緒にやってみたい」
そんな声を、作造は何度も聞いた。
本人は照れくさそうに笑って流していたが、町で作造を知らないバンドマンはいない。そう言われるほどの存在になっていた。
当時、この町にはライブをする場所もそれなりにあった。
古い飲み屋の奥にある小さなステージ。
商店街のイベントスペース。
飲み屋街近くのライブハウス。
夏祭りの仮設ステージ。
音を鳴らす場所には困らなかった。
けれど、足りないものがひとつだけあった。
楽器店である。
もちろん、町に楽器を扱う店がまったくなかったわけではない。フルートやトランペット、バイオリン。そういったクラシカルな楽器を扱う店はあった。学校の吹奏楽部や、昔から楽器を習っている人たちが通うような店だった。
けれど、急に押し寄せてきたバンドブームには、町の楽器事情が追いついていなかった。
ギター。
ベース。
アンプ。
エフェクター。
シールド。
ピック。
弦。
バンドを始めたい若者たちが必要とするものを、ちゃんと扱う店が、この町にはなかった。
何かを買おうと思えば、電車に乗って少し先の大きな町まで行くしかない。壊れた楽器を直したくても、気軽に相談できる場所がない。弦が切れただけで、練習が何日も止まってしまう者もいた。
音を鳴らす場所はある。
けれど、その音を生み出すための場所がない。
作造は、そんな光景を何度も見ていた。
「始めたいんじゃけど、どれを買えばええんか分からん」
「ベースの音が出んようになったんよ」
「弦、どこで買えばええん?」
「毎回電車に乗って行く金がないけぇ、もうええわ」
そう言って、音から離れていく若者もいた。
始めたくても、始められない。
続けたくても、続けられない。
そんな理由で諦めていく姿を見るたびに、作造の胸には小さな引っかかりが残った。
――この町には、音を作る場所が必要じゃ。
そう思うようになったのは、いつからだっただろう。
最初は、ただの思いつきだった。
けれど、その思いつきは日を追うごとに大きくなっていった。
自分がステージに立つだけでは足りない。
自分が音を鳴らすだけでは、いつか終わってしまう。
けれど、誰かが音を始める場所を作れたなら。
誰かが迷った時に立ち寄れる場所を作れたなら。
この町の音は、もっと先まで続いていくかもしれない。
そう考えた作造は、この町で小さな楽器店を開くことを決めた。
周囲は驚いた。
「お前、まだまだ弾けるじゃろ」
「店なんか始めてどうするんや」
「ステージ降りるんか?」
そんな声もあった。
けれど、作造の中ではもう決まっていた。
もちろん、完全に音楽をやめるわけではない。
ベースを手放すつもりもなかった。
ただ、自分が前に出て音を鳴らすだけではなく、誰かが音を鳴らすための場所を作りたかった。
店は、商店街から少し離れた道沿いに構えた。
大きな店ではない。
看板も派手ではない。
けれど、扉を開けると木の匂いがして、壁にはギターやベースが並び、棚には弦やピック、シールドが置かれていた。
町で名の知れていた作造が楽器店を開いたという話は、瞬く間に広がった。
最初の頃、店には毎日のように誰かが来た。
初めてギターを買いに来る高校生。
ベースの弦を探しに来るバンドマン。
壊れたアンプを抱えてくる青年。
ただ作造と音楽の話をしたくて立ち寄る者。
目的は人によってさまざまだった。
「これから始めたいんですけど」
「この音、なんか変なんです」
「作造さん、このベースどう思う?」
「ライブ前にちょっと見てくれん?」
作造は一人ひとりの話を聞いた。
高い楽器を無理に勧めることはしなかった。
初心者には、その人の手に合うものを選んだ。
金のない若者には、中古の楽器を整えて渡した。
壊れた楽器は、できる限り直した。
店は、いつも誰かの音で満ちていた。
試し弾きのぎこちないコード。
ベースの低い振動。
弦を張り替える音。
若者たちの笑い声。
作造にとって、その店はただ物を売る場所ではなかった。
音が始まる場所だった。
それから、数十年の月日が流れた。
気づけば、作造はもうすぐ六十代になろうとしていた。
町の景色も、少しずつ変わっていった。
かつて夜になると音が鳴っていたライブスペースは、いくつか姿を消した。商店街のシャッターは以前より多く閉まるようになり、駅前の人通りも昔ほどではなくなった。
バンドブームは遠い昔の話になっていた。
あれほど町に溢れていたバンドマンたちの姿も、今ではめっきり少ない。店内に並ぶ楽器も、以前ほど多くはなかった。壁に掛けられたギターは、片手で数えられるほどになっていた。
店を訪れる人も減った。
一日の多くは、店内の掃除をしたり、古い弦の在庫を整理したり、近所の人と世間話をしたりして過ぎていく。
それでも作造は、毎朝変わらず店を開けた。
木の床を掃き、カウンターを拭き、壁に掛かった楽器の埃を払う。古いラジオをつけると、小さな音でニュースが流れる。
ある日の昼下がり。
近所に住む男が、いつものように店へやってきた。買い物をするわけではない。ただ椅子に座り、作造と話をするためだった。
「昨日の試合、見たか?」
「見た見た。あれは監督が悪いわ」
「いや、あれは選手もいけんじゃろ」
野球の話。
地域の話。
昔の商店街の話。
そんな取り留めのない会話が、店の中にゆっくりと流れていた。
やがて、男はふと店内を見回した。
「作造さん」
「なんじゃ」
「この店、いつまで続けるんだい? お客さんもほとんど来んし、もうそろそろ潮時なんじゃないか?」
作造は少しだけ黙った。
男の言葉に悪気がないことは分かっていた。心配してくれているのだろう。それでも、店内にその言葉が落ちると、少しだけ空気が静かになった。
作造は壁に掛かったギターを見上げた。
「まだ、もう少しは続けるかのぉ」
「なんでまた」
「まだ音を求める人がおるような気がするんじゃ」
男は不思議そうに作造を見た。
作造は続けた。
「今は店に行かんでも楽器は買える。画面を見て、指で押せば、次の日には届く。便利な時代じゃ」
「まあ、そうじゃな」
「でもな。直接楽器に触れることで感じるものもあるんよ。持った時の重さとか、弦に触れた時の感触とか、鳴らした時に胸に残るもんとか。そういうもんは、画面越しじゃ分からん」
作造は、少し笑った。
「誰かがここへ来て、一本の楽器に触れて、何かを感じるかもしれん。そう思うと、まだ閉められんのよ」
男は何も言わず、ただ「そうか」とだけ返した。
作造には、音とは別にもうひとつ楽しみがあった。
夕方、店を閉めたあとに向かう場所。
商店街の中にある、小さな居酒屋だった。
暖簾をくぐると、出汁の匂いと焼き魚の匂いが混ざって漂ってくる。カウンターに座り、酒を一杯だけ飲む。店主や働いている者たちと、少しだけ言葉を交わす。
その時間が、作造は好きだった。
ある日の夕方。
一人の青年が作造の店を訪れた。
高校生くらいの年頃だった。細身で、静かそうな表情をしている。けれど、その目の奥には、どこか鋭く突き刺すような雰囲気があった。
作造は長年、いろいろな若者を見てきた。
明るく勢いだけで楽器を始める者。
自信なさそうに店へ入ってくる者。
音よりも見た目に惹かれている者。
誰かに憧れて、同じ楽器を探す者。
その経験から、作造は思った。
この青年は、きっとエレキギターを選ぶだろう、と。
歪んだ音。
鋭いリフ。
アンプから飛び出すような音。
青年の雰囲気には、そういう音が似合う気がした。
けれど、青年が手に取ったのは、意外にもアコースティックギターだった。
作造は少し驚いた。
長年の勘が外れたことに、ほんの少しだけ可笑しさもあった。けれど同時に、青年に興味が湧いた。
この青年は、いったいどんな音を鳴らすのか。
青年は多くを語らなかった。必要なことだけを短く聞き、作造の説明に静かに頷いた。そして、一本のアコースティックギターを選んで店を出ていった。
作造は、その背中をしばらく見送った。
ある日、いつもの居酒屋からの帰り道。
商店街の片隅から、ギターの音が聞こえた。
作造は足を止めた。
よく見ると、そこにいたのは、あの日店でアコースティックギターを選んでいった青年だった。
青年は座り込み、ギターを抱えていた。まだ人通りの残る時間帯だったが、立ち止まる者はほとんどいない。
作造は少し離れた場所で、その音を聞いた。
だが、その音には迷いがあった。
強く鳴らそうとしている。
何かを壊すように弾こうとしている。
けれど、どこへ向かいたいのかが定まっていない。
音は荒れていた。
激しさはある。
けれど、芯がない。
森の中で道を見失い、同じ場所をぐるぐる歩いているような音だった。
作造は声をかけなかった。
今の青年に必要なのは、誰かの言葉ではない気がした。自分で迷い、自分で探し、自分で抜け出すしかない。そういう時期が、音を鳴らす者にはある。
それからしばらく、作造は商店街でその青年を見かけた。
けれど、やがてその姿は見えなくなった。
ギターをやめたのか。
別の場所で弾いているのか。
それとも、ただ迷い続けているのか。
作造には分からなかった。
――それから一年以上が過ぎた頃。
いつものように店を閉め、居酒屋へ向かう途中だった。
夕方の線路を抜け、商店街の方へ歩いていた作造の耳に、ギターの音が届いた。
足が、自然と止まった。
商店街の入口付近。
陸橋の上。
線路をまたぐその中央には、小さな休憩スペースと一本の街灯がある。
その街灯の下に、青年が立っていた。
あの時の青年だった。
けれど、音は以前とはまるで違っていた。
アコースティックギターでありながら、空気を切り裂くような鋭さがある。指が弦に叩きつけられるたび、乾いた音が夜へ弾ける。ボディを叩く低い音が、足元から響いてくる。
激しい。
力強い。
それでいて、ただ乱暴なだけではない。
音の中に、確かな芯があった。
以前のような迷いは、どこにもなかった。
青年は、自分の音を見つけていた。
作造は、しばらくその姿を見つめていた。
声をかけようとは思わなかった。
拍手をしようとも思わなかった。
ただ、胸の奥が静かに熱くなった。
あの時、森の中で迷っていた青年が、そこから抜け出し、自分の道を見つけていた。
それだけで十分だった。
作造は何も言わず、その場を後にした。
その日の酒は、いつもより少しだけ美味く感じられた。
数日後、作造は一本のギターを作り始めた。
これまでの人生を、音にするために。
修理は何度もしてきた。ネックの調整、弦高の調整、配線の修理、傷んだパーツの交換。楽器に触れてきた時間なら、誰にも負けない自信があった。
けれど、制作は初めてだった。
木を選ぶところから、作造は迷った。どんな音にしたいのか。どんな人の手に渡ってほしいのか。考えれば考えるほど、答えは簡単には出なかった。
ボディとネックは専門の工房に依頼した。けれど、それ以外の部分は、できる限り自分の手で組み立てた。
ペグを取り付ける。
ブリッジを合わせる。
ナットを削る。
弦を張る。
何度も鳴らし、何度も調整する。
思うようにはいかなかった。
音が硬すぎる。
響きが足りない。
弦の高さがわずかに気になる。
触れた時の感触が、自分の思うものと違う。
失敗しては直し、また失敗する。
それでも作造は、手を止めなかった。
若い頃にステージで鳴らした音。
店を開いた日の緊張。
初めてギターを買っていった少年の顔。
修理した楽器を嬉しそうに抱えて帰った若者。
迷いながら音を鳴らしていた青年。
そして、街灯の下で自分の音を見つけた青年。
そのすべてを、一本のギターに込めるように、作造は少しずつ形にしていった。
そして――
数年の月日をかけて、一本のギターが完成した。
美しい木目を持つそのギターは、派手ではなかった。けれど、静かにそこにあるだけで、不思議と目を引いた。
弦を軽く弾くと、柔らかい音が店の中に広がった。
強く主張する音ではない。
けれど、胸の奥に小さく残る音だった。
作造はしばらく、その響きを聞いていた。
「ええ音じゃ」
そう呟いて、作造はそのギターを壁に掛けた。
他のギターと同じように、ひっそりと。
けれど作造には分かっていた。
このギターは、いつか誰かの始まりになる。
それから数ヶ月後。
雨上がりの夕方だった。
店の外では、濡れたアスファルトが淡く光っていた。商店街の方からは、人の声と夕飯の匂いがかすかに流れてくる。
作造がカウンターで古い弦の箱を整理していると、店の扉が静かに開いた。
小さなベルが、からん、と鳴る。
作造は顔を上げた。
入口に、一人の少女が立っていた。
服の袖には、雨の名残がわずかに残っている。少し緊張したように肩を縮めながら、それでもその目は、まっすぐ店の中を見つめていた。
初めてこの場所に足を踏み入れた者の、不安と期待が入り混じった表情。
作造は、何も言わずに少女を見た。
少女もまた、しばらく言葉を発しなかった。
ただ、店内に漂う木の匂いと、壁に並ぶ数本のギターを見つめている。
雨上がりの夕方。
古びた小さな楽器店。
壁に掛かった、美しい木目のギター。
そして、扉の前に立つ一人の少女。
その瞬間、作造はまだ知らなかった。
この出会いが、少女の人生を大きく変えていくことを。
そして、かつて自分が作った小さな店が、もう一度誰かの音の始まりになることを。
店の奥で、古い時計が静かに時を刻んでいた。




