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第1章【はじまりの音】前編

海と山に囲まれた町に、澄は住んでいた。


朝、窓を開けると、少し湿った風が部屋の中へ入ってくる。遠くから運ばれてくる海の匂い。

坂道の多い町で、家々は山の斜面に沿うように並び、細い道を下っていけば、やがて海沿いの道へ出る。


澄にとって、それは特別な景色ではなかった。


生まれた時からそこにある海。

見上げればいつもそこにある山。

夕方になると、商店街の方から漂ってくる揚げ物の匂い。

駅前を行き交う人の声。

どこにでもあるようで、この町にしかない日常。


澄は、そんな町で普通に暮らしていた。


音楽をまったく聞かないわけではない。

友達と流行りの曲の話をすることもあったし、テレビから流れてくる歌を何となく口ずさむこともあった。けれど、それはあくまで毎日の中に自然と流れているものだった。


特別に好きなアーティストがいるわけでもない。

楽器を弾いてみたいと思ったこともない。

音楽は、澄にとって少し遠い場所にあるものだった。


高校生になってからも、毎日は大きく変わらなかった。


授業を受けて、友達と笑って、放課後になれば一緒に帰る。学校からの帰り道、海沿いの道を自転車で走る時間が、澄はわりと好きだった。


潮の匂いを含んだ風が制服の袖を揺らす。

横を走る友達が、今日あったことを大げさに話す。

くだらないことで笑いながら、コンビニに寄ってお菓子を買ったり、駅の近くの商店街まで足を伸ばしたりする。


商店街は、昔からある小さな店が並ぶ通りだった。

惣菜屋からは夕飯の支度を急がせるような匂いが流れてくる。

古びた看板の喫茶店、もはや商店街の看板になっている誰にも飼われていない犬、学生がよく立ち寄るクレープ屋。


駅前に自転車を停めると、澄たちはよくそのクレープ屋に寄った。 「今日、チョコバナナにする」

「また?」

「いいじゃん、安定が一番。」


そんな何でもない会話をしながら、クレープを片手に商店街を歩く。笑って、少し寄り道して、暗くなる前に家へ帰る。


どこにでもある高校生活だった。

澄自身も、そう思っていた。


そんなある日の帰り道。


その日も澄は、友達と並んで商店街を歩いていた。

夕方の空は少し赤く染まり始めていて、店の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。


いつもと同じ時間。

いつもと同じ道。

いつもと同じ友達の声。


けれど、その中に、ふと知らない音が混じった。


最初は、どこかの店から流れている音楽かと思った。

けれど、耳を澄ますと違う。スピーカー越しの整った音ではなく、もっと近くて、生々しい音だった。


ギターの音。


澄は思わず足を止めた。

「ん?」


友達の声が少し遠くなる。澄は音のする方へ視線を向けた。


商店街の脇にある細い路地。その奥に、街灯が一本立っていた。

まだ完全に夜ではないのに、その明かりだけが少し早く灯っている。


その下で、一人の男がギターを弾いていた。


歌っているわけではなかった。

誰かに話しかけているわけでもない。

ただ、そこに座り、ギターを抱え、リズムを刻むように音を鳴らしていた。


澄の知る限り、ギターというものはピックで弦を弾くものだった。

テレビで見る人たちも、動画で見かける人たちも、だいたいそうしていた。


けれど、その男の弾き方は違っていた。


指を弦に叩きつけるようにして、音を響かせている。時にはギターのボディを軽く叩き、低い音を鳴らす。弦の音と木の音が重なり、路地の奥から商店街へ、まるで波のように広がってくる。

荒々しい。

でも、ただ激しいだけではなかった。

その音には、不思議な温かさがあった。

知らないはずなのに、どこか懐かしい。

強いのに、怖くない。

胸の奥を軽く叩かれるような、そんな音だった。


澄は、その場から動けなかった。


男の表情は、街灯の影でよく見えない。

けど、音だけははっきりと届いてくる。指先が弦に触れるたび、空気が小さく震える。その震えが、なぜか澄の中にも残っていく。


少し先を歩いていた友達が振り返った。

「行こ?」


その声で、澄はようやく我に返った。

「あ、うん」


澄は頷き、友達の方へ歩き出した。


けれど、歩き出してからも、その音は耳の奥に残っていた。


商店街のざわめきの中でも。

友達の話に相槌を打っている間も。

自転車に乗って海沿いの道を帰っている時も。


あの音が、ふとした瞬間によみがえった。


家に帰ってからも、澄は少しだけぼんやりしていた。

夕飯を食べながらテレビを見ていても、画面の中の音より、路地の奥で聞いたギターの音の方が鮮明に思い出せた。


何だったんだろう。そう思った。


別に、すごく上手いとか、かっこいいとか、

そういう言葉だけでは片づけられなかった。

もっと小さくて、でも確かに胸に残るもの。


翌日も、その次の日も、澄はいつものように学校へ行った。


友達と笑い、授業中に眠くなり、放課後にはまた商店街を通った。

けれど、路地の前を通るたびに、澄は無意識にそちらを見てしまうようになっていた。


あの日の男はいない。

街灯だけが、何事もなかったように立っている。


それでも澄は、そこを通るたびに少しだけ足を緩めた。


音楽に特別な興味なんてなかったはずなのに。

ギターなんて、自分には関係のないものだと思っていたのに。気づけば、あの音のことを考えていた。


数日後。


その日は朝から雨が降っていた。

窓の外は白く霞み、山の輪郭もぼんやりとしていた。

通学路の坂道には雨水が細く流れ、海沿いの道では、いつもより強い潮の匂いがした。


雨は嫌いではない。

でも、特別好きというわけでもなかった。


制服の裾が濡れるのは少し面倒だし、靴下に水が染みる感じも好きではない。けれど、雨の日の町はいつもより静かで、どこか落ち着いて見えた。


そんな雨も、学校が終わる頃には止んでいた。


放課後の空には、まだ重たい雲が残っている。

濡れたアスファルトが夕方の光をぼんやりと反射していた。

雨上がりの空気には、海の匂いと土の匂いが混ざっている。


その日、澄は寄り道もせず何かを決心したかのように帰宅した後一人で歩いていた。


向かっている場所は祖父母の家へ行く途中にある、小さな楽器店。


物心ついた頃から、その店の前は何度も通っていた。

けれど、中に入ったことは一度もなかった。

看板は少し色あせていて、店先のガラス越しには、古い譜面台や弦の袋が並んでいるのが見える。


気にしなければ、通り過ぎてしまうような店だった。


澄は、その店の前で立ち止まった。


どうしてこの店だったのか、自分でもよく分からなかった。


ただ、あの路地で聞いた音が、まだ胸の奥に残っていた。

あの音がどこから生まれているのか。

どうすれば、あんなふうに鳴るのか。


それを知りたいと思ってしまった。


初めて楽器店に入るというだけなのに、胸が少し落ち着かない。扉の向こうには、自分の知らない世界があるような気がした。


入ったところで、何を言えばいいのだろう。

ギターを見たいです、でいいのだろうか。

弾けもしないのに、変に思われないだろうか。


そんなことを考えながら、澄はしばらく店の前に立っていた。


雨上がりの風が、濡れた髪を少し揺らす。

遠くで、車が水たまりを踏む音がした。


澄は小さく息を吸った。


そして、少し戸惑いながらも、店の入り口に手を掛けた。


扉の向こうから、かすかに木の匂いがした。


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