第4章【協和音】第一部 転校生
青年はずっとこの町に住んでいたわけではなかった。
中学二年生の春。
桜が咲き始めた頃だった。
父親の仕事の都合で、家族と共に青年はこの海辺の町へ引っ越してきた。
引っ越し当日。
トラックの荷台から運び出される段ボールを横目に、青年は新しい家の前に立っていた。
潮の香りが風に混じっている。
少し顔を上げると、家々の向こうに海が見えた。
以前住んでいた街にはなかった景色だった。
「暇そうな町だな……」
それが第一印象だった。
前に住んでいた街はもっと賑やかだった。
大型のショッピングモールもあった。
ゲームセンターもあった。
自転車がなくても周りにはたくさんそういった場所があった。
だが、この町にはそれがない。
あるのは山と海。
そして静かな時間だけだった。
青年はため息をついた。
別に引っ越したくて来たわけじゃない。
誰かに会いたくて来たわけでもない。
ただ親の都合で来ただけだ。
だから期待もなかった。
翌日。
制服に袖を通した青年は、新しい中学校へ向かっていた。
坂道を下る。
海が見える。
また坂道。
知らない景色。
知らない人。
知らない町。
その全てが少し面倒だった。
校門をくぐると担任教師が待っていた。
「緊張してるか?」
そう聞かれたが、青年は首を横に振った。
「別に。」
担任は苦笑する。
「大物だな。」
青年は何も答えなかった。
やがてホームルームの時間になり、担任に連れられて教室へ向かう。
教室の前で足を止めた。
中から生徒たちの話し声が聞こえる。
ガラガラと戸が開いた。
瞬間。
視線が集まった。
三十人以上の目が一斉に自分を見る。
担任が前へ出た。
「今日からこのクラスの新しい仲間だ。」
教室が少しざわつく。
青年は前へ出た。
「自己紹介を。」
担任に言われる。
青年は教室を見渡した。
期待。
興味。
好奇心。
そんなものが混ざった視線だった。
少し考えた後、口を開く。
「響です。」
それだけだった。
数秒の沈黙。
そして教室中から小さなざわめきが起きた。
「終わり?」
そんな声まで聞こえる。
だが響は気にしなかった。
言う必要がないと思ったからだ。
担任に指定された席へ向かう。
窓際の後ろから二番目。
椅子へ座る。
隣の席の少年が恐る恐る話しかけてきた。
「よろしく。」
響は軽く視線を向けた。
「あぁ。」
それだけ。
会話は終わった。
その日から響はあっという間に有名人になった。
もちろん良い意味ではない。
「無愛想。」
「生意気。」
「感じ悪い。」
そんな噂が校内に広がっていった。
だが響は気にしなかった。
いや、気にしたくなかった。
どうせ二年も経てば卒業する。
どうせそれまでの付き合いだ。
そう思っていた。
放課後。
校門を出る。
誰とも話さない。
誰とも帰らない。
一人で歩く。
それが当たり前だった。
ある日。
校舎裏へ呼び出された。
上級生が三人。
理由は知らない。
だが大体の想像はつく。
「おい!転校生。お前調子に乗ってんのか?」
響は面倒そうにため息をついた。
それが気に入らなかったのだろう。
その後は小さな喧嘩になった。
それが一度だけではなかった。
何度も呼び出された。
何度も揉めた。
そしてその度に噂は大きくなった。
いつしか、『怖い転校生』
というイメージが出来上がっていた。
響自身は否定しなかった。
否定する気もなかった。
誰も自分のことなんて見ていない。
そう思っていたからだ。
だが。
そんな中、一人だけ他とは違う人間がいた。
薫だった。
最初に違和感を覚えたのは昼休みだった。
廊下で一年生の男子が教材を落とした。
教科書やノートが散らばる。
周囲の生徒は通り過ぎる。
響も最初はそのまま通り過ぎようとした。
だが。
気付けば足が止まっていた。
しゃがみ込み教材を拾う。
「ほら。」
一年生は驚いた顔をしていた。
「あ、ありがとうございます!」
響は何も言わず歩き去った。
その様子を教室の窓から見ていた少年がいた。
薫だった。
また別の日。
部活帰りの教師が大量の教材を運んでいた。
階段で苦戦している。
誰も気付かない。
気付いても見て見ぬふりをする。
そんな中。
響だけが黙って荷物を持った。
「お、おう。助かる。」
「別に。」
そう言って去っていく。
また別の日。
雨の日だった。
校門近くで濡れている子猫がいた。
響は自分のパンをちぎり、その猫の前に置いていた。
誰にも見られていないと思っていた。
だが。
薫だけは見ていた。
何度も。
何度も。
響を見ていた。
だから薫には分かっていた。
みんなが言うような人間じゃない。
不器用なだけだ。
話すのが苦手なだけだ。
本当は優しい。
そう思っていた。
そしてある日の放課後だった。
校門を出た響の後ろから声が聞こえた。
「おーい!待ってよー!」
響は振り返る。
知らない顔だった。
いや。
同じクラスのはずだ。
だが名前を覚えていない。
少年は息を切らしながら走ってきた。
「やっと追いついた。」
「お前、誰?」
本気で聞いた。
薫は固まる。
「え?」
「誰?」
「薫だよ!」
「知らねぇ。」
「同じクラス!」
思わず薫は吹き出した。
普通なら腹を立てるところだろう。
だがなぜか面白かった。
「で、何?」
響が聞く。
薫は笑いながら言った。
「帰り道、一緒だから。」
「は?」
「一緒に帰ろうと思って。」
響は意味が分からなかった。
なぜわざわざ自分なんかと帰るのか。
だが薫は気にしない。
前はどこに住んでいたのか。
好きな食べ物は何か。
趣味はあるのか。
次から次へと話しかけてくる。
響は適当に答えた。
それでも薫は楽しそうだった。
変な奴。
それが第一印象だった。
だが。
その日から毎朝薫は現れた。
「おはよう!」
「・・・」
放課後も待っていた。
「帰ろう。」
「勝手にしろ。」
それでもついてくる。
何日経っても。
何週間経っても。
まるで諦める気配がなかった。
そしてある朝。
登校中の坂道で響は聞いた。
「なぁ。」
「ん?」
「お前、なんで俺なんかに話しかけるんだ?」
薫は少し考えた。
そして笑った。
「響が優しいから。」
響は足を止める。
「は?」
「見てたよ。」
「何を。」
「色々。」
一年生のこと。
先生のこと。
猫のこと。
全部だった。
響は顔を赤くする。
「見てんじゃねぇよ。」
「ごめん。」
「恥ずかしいだろ。」
「うん。でも、やっぱり優しいじゃん。」
薫はそう言って笑った。
その笑顔を見た時だった。
響は初めて思った。
この町も。
そんなに悪くないかもしれないと。
それが、二人の友情の始まりだった。




