第95話「寶島」
画面の中に、女の顔があった。
三月十七日。水曜日。午前十時。第三課の会議テーブルにノートPCを据えて、寶島探索保險とのオンラインミーティングを接続した。回線はセキュアVPN経由。沢渡が設定を確認した。
林美華。リン・メイファ。三十四歳。寶島探索保險の損害査定部門の査定官。台湾の公認会計士資格を持っている。画面越しの顔は整っているが、表情が硬い。目の下にくまがある。夜遅くまで資料を準備していたのだろう。背景はオフィスの壁。白い壁に、社内掲示の紙が二枚貼ってある。繁体字中国語。
「宇津木さん。はじめまして。林美華と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
日本語が堪能だった。発音に台湾華語の抑揚が残るが、敬語の使い方に迷いがない。沢渡が後で調べたところ、林は筑波大学の大学院に二年間留学していた。会計学専攻。日本語能力試験一級。
「林さん。こちらこそ。損害査定部第三課の宇津木です。本日は蓮田課長以下、五名が同席しています」
蓮田がカメラの前で軽く頭を下げた。早乙女と堤は、画面に映らない位置に座っている。沢渡がカメラの横でメモの準備をしている。有坂は給湯室でコーヒーを淹れている。
「お願いいたします。早速ですが」
林の声が少し震えた。緊張ではない。怒りに近い何かを抑えている声。
「弊社で確認している異常データを共有させていただきます。画面を共有いたします」
画面が切り替わった。エクセルのスプレッドシート。数字の列。台湾ドルと日本円の併記。沢渡が身を乗り出した。
*
林のデータは正確だった。
台湾のダンジョン探索クラン三社。名前は伏せられていたが、番号で管理されている。クランA、クランB、クランC。三社ともアークライトに再保険をかけている。保険金請求額の推移が画面に表示された。
二〇二三年度。クランA:年間八億台湾ドル。クランB:年間六億台湾ドル。クランC:年間四億台湾ドル。合計十八億台湾ドル。
二〇二五年度。クランA:年間十四億台湾ドル。クランB:年間十億台湾ドル。クランC:年間六億台湾ドル。合計三十億台湾ドル。
二年で一・七倍。自然な市場成長率では説明がつかない増加速度。台湾のダンジョン保険市場全体の成長率は、年間七パーセント程度。クラン三社だけが七十パーセント増加している。
「日本円に換算すると、年間約百二十億円です」林が言った。声が少し早くなっている。数字を並べるときの会計士の癖。「日本の事件で報道された百五十億円と合わせると——」
「二百七十億円」沢渡がメモに書き留めた。声は冷静だが、ペンを握る指に力が入っている。
わたしはTier 1を起動した。画面越しでもTier 1は機能する。林が共有しているデータの数字を視る。全て青。嘘がない。林の資料は正確で、改竄されていない。
だが、次のスライドに移った瞬間、色が変わった。
寶島の社内監査報告書の抜粋。三十ページの報告書のうち、五ページ分が黒塗りにされている。物理的な黒塗りではなく、PDF上での墨消し。だが、Tier 1で視ると、黒塗りされた部分そのものが黒く光っている。黒塗りの下に、意図的に隠された情報がある。
「林さん。この黒塗りは、誰の判断ですか」
画面の中で、林が一瞬、目を逸らした。口元が僅かに強張る。それからカメラに視線を戻した。
「……社内の法務部門です」
林の日本語が、一瞬だけ固くなった。感情が昂ると母語の構文に引っ張られるのだろう。すぐに戻した。
「監査報告書の全文共有には、法務部門の承認が必要です。五ページ分については承認が下りませんでした。理由は……法務部門は理由を開示していません」
「開示の拒否ですか」
「拒否です。書面で拒否されました。理由の欄は空白でした」
書面で拒否して、理由は空白。わたしは芝山幸雄を思い出した。ダンジョン庁の内部でも同じことが起きていた。情報を止める人間は、理由を書かない。理由を書けば、理由を検証される。空白にしておけば、追及の足がかりがなくなる。
「ただ——」
林が声を落とした。画面越しにも、声の温度が下がったのが分かった。
「法務部門の担当者は、アークライトとの再保険契約の窓口も兼任しています。利益相反の可能性を、わたしは上層部に報告しました。回答は、まだありません」
わたしは黒塗りを見つめた。PDFの墨消しの向こうに何があるのか、Tier 1では読めない。物理的に消された情報は、Tier 1の射程外。Tier 4なら貫通できるが——右目が、微かに痛んだ。反射的な疼き。使わない。今は使わない。
堤が画面の横で無言のまま、手元のメモに何かを書いた。わたしの席からは読めないが、おそらく法務部門の担当者名を記録している。
*
林のプレゼンテーションが終わった。四十五分間。データは精密で、分析は鋭かった。台湾の保険市場に精通した人間の仕事。わたしたちが一年かけて到達した結論の一部に、林は独力で到達していた。使えるデータが少ない中で、限られた情報から最大限の推論を引き出している。
早乙女がマイクの入らない位置から、小声でわたしに言った。
「あの人、本気だな」
「ええ」
「目が似てる。——去年の宇津木に」
答えなかった。だが、わたしも同じことを考えていた。
蓮田が口を開いた。
「林さん。一つ確認したい。この調査は、寶島の社内で正式に承認されたものか」
林が一瞬、躊躇った。躊躇いが画面越しに見えた。
「査定部門の部門長の了承は得ています。ただし——経営会議には報告していません。法務部門が黒塗りを外さない限り、経営会議に報告する材料が足りないと判断しました」
「つまり、あなた個人の判断で日本に照会を出した」
「部門長と二人で判断しました」
蓮田が頷いた。蓮田は上層部の動きに敏感だ。三豊でも同じことがあった。黒川部長が不正を知りながら、経営会議に報告しなかった。情報を止める人間は、どの組織にもいる。
「林さん」わたしは画面に向かって言った。「黒塗りの五ページ分がなくても、クラン三社の異常データは十分に意味があります。わたしたちはこのデータと日本側のデータを突き合わせます。何か分かったら、お伝えします」
林が深く頭を下げた。画面が揺れた。
「ありがとうございます。宇津木さん。——正直に申し上げます。わたし一人では、この問題をどうすることもできません。法務部門が壁になっている。上層部は動かない。日本のように、事件として表に出す力が、台湾にはまだありません」
声が震えていた。今度は怒りではなく、孤立した人間の声。一人で巨大な問題に向き合っている人間の声。
わたしはその声を覚えておくことにした。一年前のわたしも同じ場所にいた。蓮田とわたしの二人しかいない部署。書類の山。答えてくれる人間がいない孤独。
林に向かって言った。
「林さん。あなたは一人ではありません。わたしたちが、ここにいます」
林が画面の中で、一瞬だけ目を閉じた。それから小さく頷いた。
回線が切れた。画面が暗くなった。ノートPCの冷却ファンの音が止まり、部屋に静寂が戻った。蛍光灯のジーという音だけが残る。
有坂が給湯室からコーヒーのおかわりを持ってきた。六つのマグカップ。ミーティングの間ずっと待っていたのだろう。コーヒーの温度がちょうどいい。有坂はそういう距離の取り方を知っている。
海を渡っても、構造は同じだった。
書類を黒く塗る人間は、どの国にもいる。




