第96話「二百七十億」
沢渡のエクセルシートが、画面に映し出された。
三月二十日。木曜日。午後二時。第三課の狭い事務室にプロジェクターはないから、沢渡のノートPCの画面を全員で囲んだ。六人が十三インチの画面を覗き込む。肩と肩が触れる距離。堤のジャケットからかすかに革の匂いがする。ベルトか、靴か。
「全データを統合しました」
沢渡の声は、数字を報告するときの声だ。感情を入れない。数字は数字として提示する。解釈は聞く側に委ねる。会計士の作法。
「まず、確定している数字から。日本、年間百五十億円。これは検察の公訴事実に基づく確定値です。台湾、年間約百二十億円。林さんのデータに基づく推計値。合計二百七十億円」
「推計値の精度は」堤が聞いた。
「八十パーセント以上の確度です。林さんのデータはクラン三社の保険金請求額に基づいていますが、実際の洗浄金額は請求額の七十パーセントから九十パーセントの範囲に収まるのが、日本のケースからの類推です」
沢渡がエクセルの別のタブを開いた。棒グラフ。二つの棒が横に並んでいる。日本と台湾。
「次に、推計を加えた数字です。韓国とタイのデータは公開情報からの推計ですが」
沢渡が数字を読み上げた。
韓国、年間推定八十億円。タイ、年間推定五十億円。インドネシアは未知数だが、ダンジョン保険市場の規模から推計すると三十億円程度。
日本百五十億、台湾百二十億、韓国八十億、タイ五十億、インドネシア三十億。
「合計で年間約四百三十億円。ただし、これは確認済みのアークライト取引先のみの推計です。アークライトの年次報告書には開示されていない取引先が存在する可能性があります。その場合」
「五百億」蓮田が低い声で言った。
「年間五百億円規模の可能性があります」
部屋が静まった。空調のモーター音が低く唸っている。五百億。わたしは自分のデスクの上の書類を見た。三豊の社内便の封筒。検察からの追加照会の写し。寶島からの照会書のクリアファイル。この部屋で扱ってきた書類の積み重ねが、五百億という数字に繋がっている。
去年の四月にこの部署に来たとき、最初の案件は探索者死亡保険金の不審な請求だった。金額は三千万円。それが一年で、五百億になった。数字の桁が変わるたびに、敵の構造が一段深くなる。
堤が腕を組んだ。百七十八センチの体が椅子をきしませた。
「それは、もう一企業の不正じゃない。国際犯罪組織だ」
「組織がある」蓮田が言った。「水守が一人で動かせる規模じゃない。鶴岡が一人で設計できる構造でもない。アジア各国にオペレーターがいる。各国の保険会社の中に、芝山と同じ役割の人間がいる」
*
早乙女が立ち上がった。パイプ椅子の脚が床を擦る音がした。窓際に移動して、三月の窓ガラスに背を預けた。ガラスの冷たさが背中に伝わっているはずだが、早乙女は気にしない。
「あたしたちの仕事の範囲を超えてないか」
声は低かった。断定の口調ではなく、問いかけ。早乙女が問いかけの形で話すのは珍しい。
「年間五百億の国際犯罪。これは警察の仕事だ。インターポールの仕事だ。保険会社の査定部門が追いかける案件じゃない」
蓮田が応じた。
「その通りだ」
蓮田の声にも否定はなかった。事実として認めている。
「だが、警察は動かない。堤が確認した通り、国際捜査共助は半年かかる。インターポールはさらに遅い。その半年の間に、水守は構造を組み替える。資金を移動させる。証拠を消す。待っていたら、同じことの繰り返しだ」
「だからって、あたしたちがどこまでやるんだ。台湾の林さんにデータを渡す。韓国やタイにも連絡する。それは分かる。だが、水守を追うのは警察の仕事だろ」
「早乙女」蓮田が遮った。声は穏やかだが、芯がある。「誰もお前に銃を持てとは言ってない。俺たちは査定員だ。書類を読む。嘘を見つける。それだけだ。五百億でも、五兆でも、やることは変わらない」
わたしは口を開いた。
「わたしたちにできることは一つです。書類を読むこと。日本の書類も、台湾の書類も、シンガポールの書類も。書類に国境はありません。——書類を書いた人間を、追いかけます」
早乙女がわたしを見た。それから蓮田を見た。二人の目が似たことを言っている。仕事の範囲を超えているのは分かっている。だが、目の前に書類がある以上、読まないという選択肢はない。
早乙女が窓から離れた。パイプ椅子に戻った。「分かってる。——分かってるから、聞いたんだ。確認しただけだ」
堤がかすかに頷いた。確認は必要な行為だ。走り出す前に、全員が同じ方向を見ているかどうかを確かめる。組対でも同じことをやった。突入前のブリーフィング。全員が理解してから、ドアを蹴る。
*
午後三時半。沢渡がわたしのデスクに来た。
声を落として言った。「宇津木さん。一つ、報告し忘れていたことがあります」
「何ですか」
「アークライトの年次報告書の監査法人を確認しました。ロンドンの中堅事務所です。ですが、二〇二四年度から監査法人が変更されています。それまでの事務所から、現在の事務所に」
「監査法人の変更は珍しくないですが」
「変更の時期です。二〇二四年度。マリーナ・ベイ・キャピタルが株主として参入した年と一致します。新しい監査法人は、マリーナ・ベイ・キャピタルの別の投資先でも監査を担当しています。水守が監査法人ごと取り替えた可能性があります」
わたしは考えた。監査法人の交代は、会計情報のゲートキーパーの交代を意味する。水守は、アークライトの数字を見る目を、自分の息のかかった人間に替えた。日本で芝山がダンジョン庁の内部で果たしていた役割を、ロンドンでは監査法人が果たしている。
「沢渡さん。その新しい監査法人について、もう少し調べていただけますか」
「すでに着手しています。結果が出たら報告します」
沢渡がデスクに戻った。キーボードを叩く音が、規則正しく響き始めた。
*
午後四時。有坂がコーヒーを配った。六つのカップ。いつもと同じ。だが今日の有坂は、コーヒーを配った後も席に戻らなかった。自分のカップを両手で包んだまま、会議テーブルの端に立っている。
「あの」
口ごもり。有坂の口ごもりは、話し始めるまでに時間がかかる。全員が待った。
「二百七十億円って、どれくらいのお金ですか」
有坂の声は小さかった。数字の大きさが、実感として掴めない。二十二歳の元D級探索者の日常には、億の単位の金は存在しない。
堤が答えた。
「新宿の一等地のビルが十棟買える」
有坂が黙った。カップを両手で持ったまま、黙った。コーヒーの表面に蛍光灯の光が映っている。
蓮田がコーヒーを一口飲んだ。それから有坂に言った。
「有坂。お前が淹れたコーヒーのほうが、その二百七十億より、今は大事だ」
有坂がカップの陰から蓮田を見た。蓮田の顔を見て、少しだけ笑った。口の端がわずかに上がる。百均のカップから湯気が立っている。
沢渡がノートPCの画面を閉じた。蓋が閉まる音が、数字の報告の終わりを告げた。
わたしは壁の付箋を見た。三枚。雷・水・鶴。この三枚の向こうに、まだ見えていない名前がある。韓国に一人。タイに一人。インドネシアに一人。台湾には——林美華が、すでに立っている。
蛍光灯がちらついた。いつもの一瞬の暗転。すぐに戻る。この部屋の時計のようなもの。
五百億。数字が大きくなっても、やることは変わらない。
書類を読む。嘘を見つける。真実を書き残す。




