第94話「照会」
封書が届いた。
三月三日。月曜日。三豊ビル北館十二階。朝一番に社内便で回ってきた封筒は、国際郵便の青い封筒の中に入っていた。差出人は「寶島探索保險股份有限公司」。中国語と英語の併記。消印は台北。二月二十六日付。
蓮田が封を開けた。中から出てきたのはA4の書面が三枚。繁体字中国語で書かれた本文の横に、日本語の訳文が添えてある。翻訳は正確だが、ところどころ硬い表現が混じる。機械翻訳を人間が修正した文体。
わたしは書面を受け取った。
照会書。正式な文書だった。寶島探索保險の損害査定部門長、陳志偉の署名が入っている。社印も押されている。赤い印影が、紙の上で少し滲んでいる。朱肉のインクが乾ききる前に封筒に入れたのだろう。三枚の書面を指で触ると、紙が僅かに厚い。台湾の企業が使う公文書用紙は、日本のA4コピー用紙より密度がある。
内容は簡潔だった。
「貴社が関与した再保険詐欺事件について、弊社でも類似のパターンが確認されています。査定部門間での情報共有をお願いいたします」
わたしはTier 1を起動した。
照会書の文面が、青く光った。青。全文青。嘘がない。偽装の照会でも、探りを入れるための欺瞞でもない。寶島探索保險は本気で困っていて、本気で助けを求めている。
三枚目の添付資料には、寶島側が把握している異常データの概要が記されていた。再保険金請求額の年次推移。二〇二三年度から急増している。数字は台湾ドルで表記されていたが、沢渡が横から覗き込んで、すぐに暗算した。
「年間約三十億台湾ドル。——日本円で約百二十億円です」
*
蓮田が照会書を机に置いた。紙の端が空調の風で微かに揺れる。
「これは罠か」
蓮田が聞いた。課長としての確認。海外から突然届いた照会書を、そのまま信用するわけにはいかない。鶴岡の件で学んだ教訓がある。親切な顔をした情報提供者が、裏で別の目的を持っていることは珍しくない。
「罠ではありません」わたしが答えた。「Tier 1で確認しました。全文青です」
「嘘がないのは分かった。——だが、嘘がないことと、意図が善意であることは別だ」
「その通りです。ただ、添付資料の数字も青です。寶島側のデータに改竄はない。彼らは本当に再保険金の異常増加に悩んでいて、日本の事件を知って、自分たちの問題と繋がっているのではないかと疑っている」
堤が口を開いた。
「照会書の形式は正規のものか」
「はい。保険業界の照会書としてはやや簡素ですが、形式上の不備はありません。社印と署名がある。——むしろ、ここまで率直に書いてくること自体が珍しい。通常、保険会社間の照会はもっと慎重な言い回しを使います」
「急いでいるんだろう」早乙女が言った。「あたしたちが一年かけて調べたことを、向こうは自分たちだけで調べようとしている。でも、手がかりがない。だから日本に頼った」
有坂がマグカップをトレイに載せて持ってきた。寶島の照会書の横にコーヒーを並べる。紙にこぼさないよう、カップの位置を少しずらした。コーヒーの湯気が照会書の上を流れて、消えた。
わたしは照会書の三枚目を読み返した。異常データの概要。台湾のダンジョン探索クラン三社で、保険金請求件数が二年間で二・四倍に増加。請求金額の平均単価も一・七倍。件数と単価の両方が上がっている。日本のクラン五社で見た現象と同じ。
「早乙女さん」
「何だ」
「台湾のダンジョンについて、何か知っていますか」
「台北市内に一カ所。新北市に二カ所。台中に一カ所。あとは高雄に二カ所。合計六カ所だったと思う。——日本の千二百カ所に比べたら少ないが、面積あたりの密度は日本より高い」
元警察官は地理情報に強い。ダンジョン対策課にいた頃の記憶が残っている。
*
午後。沢渡が寶島探索保險の財務データを調査した。
台湾のダンジョン保険市場は、日本の三分の一の規模。年間保険金支払総額は約一兆五千億円。寶島はそのうちシェア二十二パーセントを占める最大手。従業員は約六百人。台北市信義区に本社ビルを構えている。
沢渡がエクセルの画面をわたしに見せた。
「寶島の再保険先です。過去三年分の取引先リスト。国内の再保険会社が二社、海外がアークライト一社。——アークライトの比率は、年々増えています。二〇二三年度は再保険料総額の十五パーセント。二〇二四年度は二十八パーセント。二〇二五年度の中間報告では三十四パーセント」
「日本と同じだ」
「同じです。日本のクラン五社もアークライトへの依存度が二〇二三年から急上昇していました。同じ時期に、同じ方向に動いている。設計された拡大です」
わたしは沢渡の画面をもう一度見た。数字の列。パーセンテージの上昇。十五、二十八、三十四。三つの数字が、寶島がアークライトの網に組み込まれていく速度を示している。一年ごとにほぼ倍増。三年後には再保険の半分以上がアークライトに集中する計算になる。日本で起きたことが、台湾でも再現されようとしている。
蓮田が窓際の席から振り返った。ポケットのセブンスターの箱に手を伸ばして、指先が箱に触れて、また戻した。この部屋は禁煙だった。十か月間、蓮田は一度もこの部屋で煙草を吸っていない。
「宇津木。照会への対応はどうする」
「応じます。情報を共有します」
「理由を聞かせろ」
「寶島のデータは、本物です。彼らの問題は、わたしたちの問題と構造が同じです。情報を共有することで、双方の調査が進む。——それに」
わたしは照会書をもう一度見た。赤い社印の滲み。急いで出した書類の痕跡。
「向こうは困っています。困っている人間が嘘のない書類を送ってきたなら、応じるのが筋です」
蓮田が鼻を鳴らした。「筋か。——お前は筋を通すのが好きだな」
「書類を読む仕事ですから。筋の通らない書類は、読む気になりません」
堤がわずかに頷いた。元刑事としての評価が、その小さな動きに出ている。情に流された判断ではなく、論拠がある判断を、堤は信用する。
蓮田がマグカップを口に運んだ。堀口珈琲の二杯目。有坂がいつの間にかおかわりを淹れていた。蓮田は有坂のコーヒーを飲むとき、必ず最初の一口を音を立てずに飲む。熱さを確かめているのか、味を確かめているのか。たぶん両方だ。
「分かった。上には俺から通す。——ただし、第三課の案件として正式に受理する。ダンジョン保険の査定に関する照会に対応するのは、査定部門の仕事だ。しかも、通常の案件じゃない。例外案件だ」
「例外案件係の管轄ですね」
蓮田が眉を上げた。「お前が言うと嫌味に聞こえるな」
「嫌味のつもりはありません」
「余計に嫌味だ」
早乙女がわずかに口の端を上げた。堤は無表情のまま腕を組んでいる。沢渡はもうノートPCの画面に戻って、寶島のデータをダウンロードし始めていた。キーボードを叩く音が、規則正しく響く。有坂がカップを一つ、棚に戻した。
窓の外に三月の空がある。冬と春の間。空の色が、二月より少しだけ明るくなっている。風はまだ冷たいが、日差しに厚みがある。
わたしは照会書を透明のクリアファイルに入れた。ファイルの背に油性ペンで日付と発信元を書いた。「2027.3.3 寶島探索保險 照会」。インクの匂いがかすかに鼻に届く。この書類は、例外案件係の三十七番目の案件書類になる。
台湾。東シナ海の向こう。飛行機で三時間の距離。
書類は、海を渡ってきた。




