第93話「海外の書類」
沢渡の報告は、いつも数字から始まる。
二月十七日。水曜日。午前十時。沢渡がノートPCの画面を会議テーブルの中央に向けた。エクセルのシートが三枚、タブで並んでいる。
「アークライト・リインシュアランスの公開財務データを整理しました。ロンドンの会社登記所からダウンロードできる範囲の書類です。年次報告書、取締役報告書、監査済み財務諸表。過去五年分」
「五年分、全部読んだのか」沢渡の作業量に、蓮田が眉を上げた。
「数字を読むのが仕事ですから」
沢渡の声は淡々としている。感情が入らない。堀口珈琲のコーヒーに一度も手をつけていない。白い陶器の中身が冷めている。
「結論から報告します。アークライトの取引先リストに、日本以外のアジアの保険会社が四社あります」
「四社」
わたしは聞き返した。前回、沢渡が報告したのは三社だった。韓国、台湾、タイ。
「前回は三社とお伝えしましたが、二〇二四年度の年次報告書の注記を精査したところ、もう一社ありました。インドネシアです」
沢渡がエクセルの二枚目のタブを開いた。取引先リスト。四社の名前が並んでいる。
韓国のハナル・ダンジョン保険。ソウル本社。韓国のダンジョン保険市場でシェア十二パーセント。
台湾の寶島探索保險。台北本社。台湾最大手のダンジョン保険会社。
タイのサイアム・ダンジョン・インシュアランス。バンコク本社。
インドネシアのPT・ダンジョン・インシュランシ・インドネシア。ジャカルタ本社。
「四社とも、アークライトに再保険をかけています。日本の五社と同じ構造です」
堤が腕を組んだ。「同じスキームが動いている可能性があるということか」
「可能性は高いと考えます。四社の再保険料の総額は、年次報告書から推計すると年間約百二十億円。日本の五社の再保険料が年間約百五十億円ですから、アジア全体でアークライトに流れる再保険料は年間二百七十億円規模です」
部屋が静まった。二百七十億。日本の百五十億だけで充分に巨額だったが、アジアを加えると規模が一段上がる。
蓮田がカップに手を伸ばして、止めた。中身がなくなっていることに気づいたらしい。
「沢渡。そのアジア四社で日本と同じ不正があるという証拠は」
「ありません。現時点では再保険の取引額が判明しただけです。不正の有無は、各国の保険金請求データと突き合わせないと判断できません。ただし、一つ気になる点があります」
沢渡がエクセルの三枚目のタブを開いた。グラフ。折れ線が四本。横軸が年度、縦軸が再保険料の金額。
「四社ともアークライトとの取引が急増し始めた時期が同じです。二〇二三年度。日本のクラン五社が再保険スキームを拡大した時期と一致しています」
わたしはグラフの折れ線を見た。四本の線が、二〇二三年を境に急角度で上昇している。同じ年に、同じ方向に、同じ角度で。自然な市場成長の曲線ではない。
「設計されている」
「はい」沢渡が頷いた。「誰かが、アジア全域で同時に再保険ネットワークを拡大した。偶然ではありません」
「だが、構造は同じだ」堤が言った。「同じ再保険会社に、同じ地域の保険会社が集中している。鶴岡が日本でやったことと、全く同じ手法がアジアで展開されている」
*
午後。堤が電話を切った。
携帯を机に置く音が、パイプ椅子の軋みと重なった。堤が大きな体を椅子から起こす。
「警察庁の国際部に問い合わせた。旧い知り合いがいる」
「何が分かった」蓮田が聞いた。
「韓国と台湾のダンジョン保険市場で、近年、保険金請求額の異常な増加が確認されている。韓国は二〇二四年から二〇二五年にかけて請求額が二十七パーセント増。台湾は同期間で三十一パーセント増。日本のクラン五社と同じパターンだ」
「具体的な不正の情報は」
「ない。各国の国内問題だ、と言われた。日本の捜査権が及ぶ話ではないと。いつもの管轄論だ」
堤の口調に苛立ちは見えない。管轄の壁に何度もぶつかってきた人間の、慣れた反応。組対時代は暴力団の県境越え案件で同じ壁にぶつかった。国境越えは、その延長線上にある壁でしかない。
早乙女が自販機の缶コーヒーを握りつぶした。空き缶が潰れる音。
「韓国も台湾も、同じことが起きてるってことだろ。あたしたちが一年かけて暴いた手口と、全く同じことが」
「同じかどうかは分からない」わたしは言った。「ただ、構造が似ている。再保険会社が同じ。保険金請求の異常増加が同じ時期に起きている。偶然で説明するには、一致点が多すぎる」
有坂がデスクの端で、両手でカップを包んでいる。話の内容を聞いている。口は挟まないが、目が追っている。黒髪ロングの向こうに、蛍光灯の光が映っている。
*
午後四時十八分。河村葵から電話があった。
河村葵。フリーのダンジョン業界ジャーナリスト。鶴岡事件の取材でわたしたちに接触してきた記者。情報源としての信頼は築いている。取材源としてのわたしたちの価値も、河村は理解している。持ちつ持たれつの関係。
「宇津木さん。一つ、お知らせしたいことがあります」
河村の声はいつもの落ち着いたトーンだが、声の下に興奮が潜んでいる。記者が情報を掴んだときの声。
「台湾のダンジョン業界紙が、あなたたちの事件の記事を転載しています。台湾語と英語で。日本のダンジョン保険会社による大規模再保険詐欺。かなり詳しい内容です。鶴岡の名前も出ています」
「台湾の業界紙が」
「はい。それだけではありません。記事が出た翌日に、台湾のダンジョン保険会社の一つから、わたし宛に取材依頼が来ました。会社名は寶島探索保險。台湾最大手です」
沢渡が顔を上げた。先ほど報告したアークライトの取引先四社のうちの一つ。
「取材依頼の内容は」
「日本と同じことが起きているかもしれない、と。再保険金の請求額が異常に増えている。内部調査をしたいが、どこから手をつけていいか分からない。日本の事例を教えてほしい、と」
わたしは受話器を握ったまま、壁の付箋を見た。三枚。雷・水・鶴。
日本で百五十億。アジアで——いくらになるのか。
「河村さん。寶島探索保險の連絡先を教えていただけますか」
「もちろん。ですが、宇津木さん。これは日本の事件の延長ですか、それとも」
「分かりません。まだ、輪郭も見えていない」
電話を切った。受話器を戻して、メモ帳に寶島探索保險の名前を書いた。ペン先の感触が指に伝わる。
蓮田がわたしの顔を見ている。カップの縁を指で撫でている。五十歳の管理職が情報を咀嚼するときの仕草。
「台湾か」
「台湾最大手のダンジョン保険会社です。アークライトの取引先四社のうちの一つ。先方から接触してきた。助けを求めている」
「それは問い合わせであって、照会じゃない。うちの管轄かどうかは別の話だ」
「管轄の話は後で考えます。先に事実を確認させてください」
蓮田が空のカップを机に置いた。置くときの音が、いつもより静か。蓮田なりの了承。
堤が腕を組んだまま、天井を見上げた。「台湾のダンジョン保険市場は日本の三分の一の規模だ。だが、同じ再保険会社を使っている以上、同じ穴から金が流れている可能性がある」
沢渡がメモを取っている。ペンの音がかすかに聞こえる。数字と事実だけを書き留める沢渡のメモは、いつも短くて正確だ。
早乙女が缶コーヒーの二本目を手に戻ってきた。有坂がカップを棚に戻している。六つが横一列に並ぶ。
日本で百五十億。アジアで——いくらになるのか。
まだ、輪郭も見えていない。




