第92話「条約の壁」
片桐検事からの連絡は、午前九時に入った。
二月十日。月曜日。三豊ビル北館十二階。わたしは受話器を取った。片桐の声は事務的だった。四十代前半の男が感情を消したときの声。悪い知らせの前触れ。
「宇津木さん。国際捜査共助の要請を正式に出しました。対象国はシンガポール。日本・シンガポール間の刑事共助条約に基づく照会要請です」
「結果は」
「結果は、まだありません。手続きには、通常三か月から六か月を要します。——これは最短の見積もりです」
三か月から六か月。受話器越しに、片桐が書類をめくる音が聞こえた。紙と紙が擦れる乾いた音。法務省経由でシンガポール司法長官室に書類を送り、先方が審査し、情報を開示するかどうか判断する。全ての工程に人間の手と時間がかかる。
「シンガポール側の協力が得られるかどうかは、先方の判断に委ねられます。こちらの要請書の内容が十分であっても、シンガポールの国内法に照らして対応が困難と判断されれば、拒否されることもあります」
「水守の口座情報や法人登記は」
「要請に含めています。ただ、シンガポールは、金融秘密の保護に厳格な法域です。口座情報の開示は最もハードルが高い。現実的には——法人登記の確認と、水守の入出国記録の照会が先になるでしょう」
「つまり、水守は当面安全だと」
片桐が一拍置いた。「法的には——そうなります」
電話を切った。受話器を戻す音が、静かな部屋に響いた。蓮田がコーヒーを飲みながら、こちらを見ていた。
「検察か」
「国際捜査共助の話です。三か月から六か月かかるそうです」
「そんなもんだ」
蓮田の声には驚きがない。三十年の業界経験が、最初から織り込んでいた数字。
*
十一時。堤が会議テーブルに地図を広げた。東南アジアの地図。コンビニで買った八百円の世界地図帳から切り離したページ。紙の端がギザギザに裂けている。堤の情報収集は金をかけない。必要なのは精度であって体裁ではないという考え方が、地図帳の切れ端に出ている。
「組対時代にインターポール経由の案件を一件やった」
堤が地図のシンガポールを指で示した。赤道の直下。マレー半島の先端。指の爪が短く、丸く切ってある。
「フィリピンの資金洗浄組織の共犯者が東京にいた。こっちは逮捕したが、フィリピン側の主犯の情報を得るのに、インターポール経由の照会で四か月。翻訳の問題があった。フィリピン国家警察が実際に動いたのは、照会から七か月後だった」
「七か月」
「結論だけ言う。国際捜査共助は時間がかかる。書類のやり取りだけで三か月。翻訳と認証に二週間。相手国の検察が内部で審査するのに一か月。そこから実際の捜査に着手するまでに、さらに二か月。——合計で半年以上だ。書類は国境を越えるたびに遅くなる」
蓮田が腕を組んだ。セブンスターの箱がジャケットのポケットから覗いている。
「つまり、水守は安全圏にいる」
「今のところは」堤が地図のページを閉じた。「半年の間に、水守はアークライトの株主構造を組み替える。資金を移動させる。証拠を消す。——国際捜査共助は正攻法だが、時間は水守の味方だ」
早乙女がパイプ椅子に座ったまま、天井を見上げた。茶髪のショートカットが蛍光灯の光を反射する。
「待ってるだけじゃ、同じことの繰り返しだ。芝山のときもそうだった。情報が来るのを待ってる間に、向こうが動いた」
「あたしたちは警察じゃないんだから、そもそも捜査権なんてないけどね」
有坂がコーヒーのトレイを持って給湯室から戻ってきた。六つのマグカップ。湯気が立っている。コーヒーの匂いが部屋に広がった。堤のステンレスマグには少なめ。堤が「多いと冷めるから半分でいい」と言ったのを、有坂は覚えている。沢渡のカップには砂糖が一つ。沢渡は無言で頷いてカップを受け取った。
*
午後。わたしは別のアプローチを考えていた。
検察の国際捜査共助は待つしかない。だが、待つだけが選択肢ではない。わたしたちは警察でも検察でもない。三豊ダンジョン保険の損害査定部門。民間企業の社員だ。刑事手続きの制約は受けない代わりに、捜査権もない。だが、民間企業として契約上の権利を行使することは、どこの国でもできる。
「民事で攻めます」
わたしの言葉に、蓮田がマグカップを止めた。コーヒーの表面が揺れた。
「民事か」
「三豊ダンジョン保険がアークライト・リインシュアランスに対して、再保険契約の不正を理由に損害賠償を請求する。刑事の国際捜査共助ではなく、民事の国際私法の枠組みで動けば、日本側から手続きを開始できます。相手国の政府の判断を待つ必要がない」
沢渡がキーボードから手を離した。眼鏡の奥の目が、もう計算を始めている。
「再保険契約には準拠法条項があるはずです。準拠法がイングランド法なら、ロンドンの裁判所に管轄が発生する可能性がありますが……契約書に仲裁条項が含まれていれば、訴訟よりも仲裁の方が手続きは速い」
「仲裁」堤が口を挟んだ。「国際仲裁か」
「はい。再保険契約では、紛争解決手段として国際仲裁を指定するのが一般的です。シンガポール国際仲裁センターか、ロンドンの仲裁機関か。——契約書を確認する必要があります」
「契約書は三豊の法務部が原本を保管しています」わたしが言った。「確認します」
堤が頷いた。「民事なら、刑事より動きは速い。だが問題が一つある。海外企業を相手に民事手続きを取るには、送達が必要だ。ハーグ条約経由の送達なら三か月。それでも刑事の半分だが」
「仲裁なら、送達はもっと簡素です」沢渡が補足した。「仲裁条項に記載された通知先に直接送付できます。一か月もかからない」
蓮田が窓際の席から立ち上がった。ポケットのセブンスターに手を伸ばしかけて、やめた。禁煙区域。代わりにコーヒーの取っ手を握った。
「上に話を通す。——だが三豊の法務部は慎重だぞ。海外企業を相手に訴訟なんてやったことがない。うちの顧問弁護士に国際訴訟の経験はない」
「なら、経験のある弁護士を探します」
蓮田がわたしを見た。五十歳の目。銀行出身の管理職が社内政治の壁の厚みを測るときの目。
「お前が探すのか」
「わたしの知り合いにはいません。佐伯先生に相談します」
佐伯弁護士。鶴岡の逮捕劇で検察との仲介をしてくれた弁護士。刑事専門だが、法曹のネットワークは広い。
蓮田が鼻で笑った。「佐伯か。あの偏屈な先生に、また頭を下げるのか」
「頭を下げるのはわたしですから、蓮田さんは気にしなくて結構です」
「気にしてない。——気にしてたら、この部署の課長なんかやってない」
早乙女がパイプ椅子から立ち上がった。窓際に移動して、外を見た。二月の午後の空。雲が低い。
「あたしにできることはあるか」
「今のところは、ありません。法務と弁護士が動くまでは」
「待つのは好きじゃない」
「わたしもです」
早乙女が振り向いた。短い視線。元警察官の目。それからわずかに口の端を上げた。
「お前の『待つ』は、普通の待つとは違うからな。待ちながら、何か考えてるだろ」
否定はしなかった。窓ガラスの向こうに、新宿の高層ビル群が霞んで見える。二月の空気は乾いていて、ビルの輪郭が鋭い。水守はあのビル群の向こう、五千キロ先のシンガポールにいる。
蛍光灯がちらついた。一瞬だけ暗くなって、すぐ戻った。
法律は国境で止まる。
だが、書類は国境を越える。書類を追えば、水守にたどり着ける。




