第91話「六人目の椅子」
椅子が二脚、増えた。
二月三日、月曜日。三豊ビル北館十二階、西端。損害査定部第三課。備品課に申請書を出したのは蓮田で、承認が下りたのは先週の金曜日だった。総務部の管理番号シールが、背もたれに貼ってある。一脚は紺、もう一脚はグレー。色が揃っていないのは、在庫の余り物を充てたからだ。
堤が紺の椅子に座った。座面を下げて、背もたれを一段だけ倒す。百七十八センチの体格に事務椅子は窮屈そうだが、文句は言わない。元組対の人間は支給品に注文をつけない。沢渡はグレーの椅子にそのまま座って、ノートPCを広げた。小柄な体が椅子に収まると、座面の余白が目立った。キーボードを叩き始めるまでに三秒。沢渡はいつも三秒で仕事に入る。
棚にカップが並んでいる。蓮田の大きな陶器。早乙女のカフェオレの缶。有坂の百均マグ。わたしのカップ。その隣に、堤のステンレス製と沢渡の白い陶器が加わった。六つ。沢渡の陶器の側面に、「KPMG」のロゴが入っている。監査法人時代の名残だろう。
「狭くなったな」
蓮田がセブンスターの箱をポケットに戻しながら言った。窓際の席から部屋全体を見渡している。五十歳の管理職の目は、椅子の配置と動線を同時に測っている。
「もともと四人部屋ですからね。六人は定員オーバーです」
「定員なんて概念がこの部署にあったか」
蛍光灯がちらついている。修繕予算は、相変わらず下りない。ジーという音が、微かに鳴っている。去年の四月からちらつき続けている。あの頃、この部屋には蓮田とわたしの二人しかいなかった。
*
午前十時十二分。検察から電話があった。
東京地検特捜部、片桐検事。鶴岡武彦の再保険取引に関する追加照会。二度目。前回は一月下旬に来た。今回の照会対象はアークライトとの取引記録のうち三箇所。二〇二五年九月の送金記録、同年十一月の再保険金支払通知書、二〇二六年三月の株式移転に関する覚書。
わたしは三豊の記録室から該当書類を引き出した。記録室は、北館の七階にある。エレベーターで降りて、管理台帳の番号を照合して、段ボール箱の中から三点を取り出す。紙の匂い。埃の匂い。空調の効かない記録室は、冬でも乾いている。段ボールの蓋を閉めるとき、テープの粘着がぱきりと剥がれる音がした。
第三課に戻って、書類をデスクに広げた。
コーヒーの湯気が視界の端を横切る。有坂が黙って淹れてくれた一杯。
Tier 1を起動する。
九月の送金記録。黒。金額欄の数字が改竄されている。元の数字の上から書き直した痕跡。二千四百万円という金額の「四」の字が、わずかに太い。上書きした筆圧の差。
十一月の再保険金支払通知書。黒。支払日が二日ずらされている。実際の支払日は十一月十八日だが、記録上は十一月二十日。二日のずれの意味は、月末締めの集計から外すためだろう。
三月の覚書。黒。署名欄の肩書きが虚偽。「アークライト・リインシュアランス アジア担当取締役」と記されているが、当時の鶴岡にその肩書きはない。鶴岡は雷電グループの顧問であり、アークライトの取締役ではなかった。
三箇所とも黒。鶴岡武彦が意図的に改竄した記録。
「三箇所、全部黒です」
沢渡がノートPCの画面から目を上げた。眼鏡のフレームに光が反射する。
「三箇所とも、ですか」
「ええ。改竄の手口はそれぞれ違いますが、いずれも鶴岡の手によるものです。片桐検事に報告します」
堤がパイプ椅子の背に体を預けた。腕を組む。百七十八センチの体が、椅子をきしませる。組対時代の癖だろう。腕を組むのは考えている時だ。
「鶴岡は丁寧な男だ。書類を改竄するにしても、三箇所も雑な仕事をするとは思えない。——わざと残した可能性がある」
「わざと?」
「煙幕だ。拘置所にいる鶴岡に、外から指示が来ている。指示通りに三箇所の改竄を認めることで、検察の目を送金記録と支払通知に向けさせる。その間に、別のものを隠す」
「別のもの、とは」
「分からない。——だが、一つ分かっていることがある」
堤が携帯の画面を見せた。メモアプリに短い文字列が並んでいる。
「鶴岡が拘置所で弁護士と面会した。面会記録は公開情報だ。弁護士は水守じゃない。東京の永井法律事務所の永井貴之。——だが、永井法律事務所の顧問名簿を調べたら、水守達也の名前がある。二〇二四年十一月付」
部屋が静まった。空調のモーター音が、低く唸っている。デスクの上のコーヒーの表面が、かすかに震えている。ビルの微振動。
「水守はシンガポールから、国内の弁護士を経由して、鶴岡に指示を出している」
早乙女が壁にもたれたまま口を開いた。茶髪のショートカットが薄暗く見える。
「鶴岡は操り人形か」
「操り人形ではない」堤が首を振った。「鶴岡は自分の意志で動いている。だが、水守の指示と利害が一致している。だから、従う理由がある」
蓮田がコーヒーを口に運んだ。堀口珈琲のブレンド。有坂が朝一番に淹れたもの。
「堤。お前、いつその情報を取った」
「昨日。拘置所の面会記録は弁護士会経由で確認できる。永井法律事務所の顧問名簿は事務所のウェブサイトに載っている。公開情報だけだ」
蓮田が鼻で笑った。だが目は笑っていない。評価している。
「使えるな、お前」
堤は何も答えなかった。沈黙で受け取る。組対出身の受け答え。
*
午後三時四十分。沢渡が報告を上げた。
ノートPCの画面をわたしの方に向ける。エクセルの表。数字の列。沢渡の指がトラックパッドの上を滑る。爪が短く切り揃えてある。会計士の指。
「アークライト・リインシュアランスの最新の株主変更届です。ロンドンの会社登記所のオンラインサービスから取得しました。手数料は十三ポンド。——マリーナ・ベイ・キャピタル・パートナーズの持株比率が、一月末日付で三十一パーセントから五十一パーセントに変更されています」
「五十一パーセント」
「過半数です。議決権の過半数を取得した以上、アークライトの経営権はマリーナ・ベイ・キャピタルに移動しました」
蓮田がカップを机に置いた。コーヒーの表面が揺れた。
「二十パーセント分の株を、誰から買ったんだ」
「売主はケイマン諸島に登記された法人です。法人名は『パシフィック・ゲートウェイ・ホールディングス』。登記簿上の代表者はケイマンの会計事務所。——実質的な支配者は特定できていません。ですが」
沢渡が一拍置いた。眼鏡の奥の目がわたしを見た。
「パシフィック・ゲートウェイの設立日は二〇二四年八月です。朝日ダンジョン投資事業組合の資金移動が始まった時期と一致します」
蓮田の声は低かった。
「水守だ」
推測ではない。三十年の金融経験が導いた結論。ケイマンの法人を使い、アークライトの株を分散保有させておいて、必要なときに一気に集約する。水守が朝日ダンジョン投資事業組合で見せた手法と同じ構造。蓮田はそのパターンを覚えていた。
わたしは壁の付箋を見た。三枚。雷・水・鶴。水守の付箋が、蛍光灯の光の下で薄く見えた。
有坂がカップを回収に来た。六つをトレイに載せる。堤のステンレス製だけが他と音が違う。金属の軽い音。有坂が小さく「すみません」と呟いて、それを両手で持ち直した。
窓の外に二月の空がある。午後四時の日差しが薄い。ガラスに、六人の影が映っている。十か月前、この窓には二人しか映っていなかった。
水守は逃げたのではない。
海の向こうから、まだ、手を動かしている。




