第90話「例外案件係」
蛍光灯がちらついていた。
一月下旬。三豊ビル北館十二階、西端。損害査定部第三課。宇津木伊吹は、三週間ぶりに事務室の椅子に座った。
右目が回復したのは、今朝だった。医師の予測通り三週間。最初に見えたのは病室の天井ではなく、退院後に真っ直ぐ来た第三課の蛍光灯だった。西端の一本。相変わらずちらついている。この部屋に来た日からちらつき続けている蛍光灯。修繕する予算は、まだ下りていない。
右目で見ると、世界が鮮明に見えた。左目だけで見ていた二週間の薄暗い世界が、右目の回復で解像度を取り戻した。色が戻った。壁の白。窓から差す一月の陽光。蛍光灯の蒼白い光。
そして——壁の付箋。
七枚。黒・雷・水・乃・鶴・庁・神。
わたしは椅子から立ち上がった。壁の前に立った。七枚の付箋を見た。一枚一枚に、名前が書いてある。わたしの字。
『黒』を指で触れた。黒川部長。わたしがこの部署に来た時の上司。シンジケートの捜査の過程で社内不正が発覚し、三豊を退職した。付箋を剥がした。親指と人差し指で摘んで、壁から離す。粘着面に、壁の塗料が薄く付いている。
『乃』を剥がした。乃木坂。証言は完了している。告発書の添付資料として、検察に提出済み。
『庁』を剥がした。芝山幸雄。辞表を出した。辞表の文面はわたしには分からない。だが、電話の声は聞いた。『あなたが正しかった』。芝山は門番を降りた。門は開いている。
『神』を剥がした。神崎良一。逮捕された。一月十一日付。ダンジョン安全推進機構理事長の肩書きは消えた。ダンジョン行政の父と呼ばれた男は、拘置所にいる。
四枚。剥がした付箋を机の上に重ねた。小さな紙の束。名前が重なっている。終わった名前。
壁に残ったのは三枚。
『雷』。雷電グループ。桐生は去った。修一は検察に協力している。だが、雷電という組織そのものはまだ存在する。
『水』。水守達也。シンガポールへ逃亡。法の刃は海を渡った。
『鶴』。鶴岡武彦。逮捕された。品川のグランドプリンスホテルで、朝食を取っていた男。黒一色の男。拘置所にいる。だが——
三枚。
剥がした四枚を引き出しにしまった。桐生の付箋『桐』も、同じ引き出しに入っている。引き出しの底に、五枚の付箋が重なった。終わった名前の置き場所。捨てはしない。名前には人がいる。終わっても、人は消えない。
壁に残った三枚を見つめた。七枚から三枚に減った。だが、三枚の重さは、七枚の時と変わらない。
*
午後。堤が情報を持ってきた。
堤の歩き方が変わっている。以前より速い。元刑事の足取りが、現役の刑事のように戻っている。
「宇津木さん。アークライト・リインシュアランスの株主構造を調べた」
「何が分かりましたか」
「最大株主はシンガポールの投資ファンドだ。ファンド名は『マリーナ・ベイ・キャピタル・パートナーズ』。名前に見覚えがあるか」
「ありません」
「だが、構造に見覚えがある。——水守が朝日ダンジョン投資事業組合を設計した時と同じ手法だ。ファンドの運営管理者は法人。その法人の登記はシンガポール法に基づいている。代表者名は——まだ確認できていない」
沢渡がノートPCから顔を上げた。「シンガポール法人の登記情報は公開されていますが、アクセスには現地の申請が必要です。——日本の捜査権では届かない」
国内は解体した。鶴岡は逮捕された。神崎は逮捕された。百五十億円の洗浄スキームは特捜部の手で解明が進んでいる。
だが、海外にはまだ構造が残っている。水守がシンガポールに渡った理由が、これだ。国内のネットワークが崩壊しても、海外のネットワークは温存されている。神崎のメールにあった通り。『シンガポールのファンドは動かすな。海外は残す』。
蓮田がマグカップのコーヒーを飲んだ。堀口珈琲のブレンド。有坂が淹れた。
「水守は逃げた。——だが、あの男の戦場は消えない。法律がある限り、どこにいても書類は作る。書類を作る限り、宇津木が読める」
蓮田の言葉は、励ましではない。事実の陳述。五十歳の管理職が三十年の経験から引き出した結論。
堤が腕を組んだ。「国内の捜査は検察に任せていい。だが、海外は——日本の捜査権が及ばない。国際捜査共助が必要になる。時間がかかる」
「どれくらい」
「半年。早くても」
半年。その間に水守は動く。シンガポールを拠点に、アークライトの資金構造を組み替えるだろう。法律の専門家は、法律の抜け穴を知っている。穴を塞ぐ前に、別の穴を掘る。
沢渡がキーボードから手を離した。「宇津木さん。一つ、気になることがあります。——アークライトの取引先に、日本以外のアジア地域のダンジョン保険会社が三社含まれています。韓国、台湾、タイ」
「同じスキームが」
「可能性はあります。日本だけではないのかもしれません」
部屋が静かになった。空調の音だけが響いている。百五十億円は日本だけの数字だった。アジア全域なら、規模はさらに大きい。
*
夕方。
第三課に六人が揃っている。
蓮田亮介が窓際の席でコーヒーを飲んでいる。セブンスターの箱が、ポケットから覗いている。早乙女灯里が壁にもたれて腕を組んでいる。茶髪のショートカット。堤真司がパイプ椅子に深く座って、携帯の画面をスクロールしている。沢渡梢がノートPCのキーボードを叩いている。眼鏡の奥の目が数字を追っている。
有坂しおんが給湯室からコーヒーを持ってきた。六つのマグカップをトレイに載せて。
「どうぞ」
一人ずつに配る。蓮田。早乙女。堤。沢渡。わたし。最後に自分の分。有坂が自分のコーヒーをすすった。
「変わりましたね」
有坂が言った。声が小さい。いつもの口ごもり。だが、今日の声には、口ごもりの奥に温度がある。
「何がだ」
蓮田がマグカップを口から離して聞いた。
「人数が、増えました」
蓮田が有坂を見た。二十二歳の黒髪ロング。百五十七センチの小柄な体。コーヒーを両手で持っている。両手で持つのは、有坂の癖。
蓮田が笑った。
「——増えたな」
十か月前、この部屋には二人しかいなかった。蓮田と、異動してきたばかりのわたし。蛍光灯がちらつく西端の部屋。書類の山。予算もなく、期待もされていない部署。
今、六人がいる。パイプ椅子が足りなくて、堤と沢渡は折りたたみ椅子を持ち込んでいる。マグカップも足りない。有坂が百円均一で買い足した白いマグカップが二つ、棚に並んでいる。
窓の外に冬晴れの空がある。一月下旬。日が短い。午後五時で空が暗くなる。蛍光灯の光が窓ガラスに反射して、六人の影が映っている。
早乙女がわたしの隣に来た。
「目、治ったんだな」
「治りました。右目も左目も」
「よかった」
短い言葉。だが、早乙女の「よかった」には、三週間の重さがある。病室に見舞いに来た夜。「止める」と約束した夜。品川の雷電本社ビルで、Tier 3を使わなかった日。
わたしは壁の付箋を見た。三枚。雷・水・鶴。
蓮田がコーヒーを飲み干した。マグカップを机に置いた。空になったマグカップの底に、コーヒーの跡が輪になって残っている。
「書類が来てる」
蓮田が封筒を持ち上げた。茶封筒。差出人は東京地検特捜部。
「追加の照会依頼だ。——鶴岡の再保険取引に関する査定報告書。三豊の記録から提出しろとのこと」
「わたしが対応します」
「頼む。——堤、沢渡、お前たちも手伝え」
堤が頷いた。沢渡が「了解です」と言った。
書類が届いている。事件は終わっていない。鶴岡は逮捕された。神崎は逮捕された。芝山は去った。だが、水守達也は海を渡った。アークライト・リインシュアランスの向こうに、まだ名前を知らない影がある。
わたしたちは六人になった。
蛍光灯がちらついている。三豊ビル北館十二階、西端。損害査定部第三課。通称、例外案件係。
書類は、まだ届き続けている。
今度は、海の向こうからも。




