第89話「崩壊」
鶴岡修一が東京地検特捜部に出頭したのは、一月七日の午前十時だった。
堤から電話があった。わたしは病院のベッドの上で聞いた。左目の視界はだいぶ戻っている。輪郭だけでなく、色の識別もできるようになった。右目はまだ暗い。
「修一が出頭した。証拠隠滅の停止と、捜査への全面協力を申し出ている。——弁護士同行。だが、弁護士は水守じゃない。別の弁護士を立てた」
「水守ではない弁護士を」
「ああ。修一は水守を切った。叔父の弁護士ではなく、自分の弁護士を選んだ」
わたしは左目で窓の外を見た。一月の空。冬晴れ。澄んだ青。
修一は自分で選んだ。Tier 3は使っていない。あの会議室で見せた証拠と、投げかけた問いだけ。『あなたは叔父のために人生を賭けますか。それとも、ここで降りますか』。修一は——降りた。
「修一の協力で何が手に入りますか」
「鶴岡武彦からの直接指示の記録。メール、メッセージ、音声メモ。修一が受け取ったものを全て提出するらしい。——片桐検事は喜んでる。これで令状が取れる」
堤の声に、珍しく高揚があった。元刑事の血が騒いでいる。
「堤さん」
「何だ」
「ありがとうございます」
堤は二秒ほど黙って、「——礼はまだ早い」と言って電話を切った。
*
一月十日。検察特捜部が動いた。
わたしは病院のベッドで蓮田からの電話を聞いている。テレビのニュースは見えないが、音声は聞こえる。左目で携帯の画面を読むことはできる。沢渡が五分おきにメッセージを送ってくる。
『10:22 鶴岡武彦自宅に家宅捜索開始。港区白金台。特捜部検事四名、捜査員十二名』
『10:35 神崎良一オフィスに家宅捜索開始。千代田区九段下。ダンジョン安全推進機構四階理事長室』
『10:41 水守達也事務所に家宅捜索開始。中央区銀座。法律事務所ミズモリ&パートナーズ』
沢渡の報告は正確で、簡潔。金融庁出身の会計士は、数字と時刻を間違えない。
蓮田が電話で言った。「河村の記事が、今日の午後に出る。——東洋経済オンラインの独占記事だ」
「タイトルは」
「『ダンジョン保険業界最大の洗浄スキーム——百五十億円の闇』。——河村が決めたタイトルそのままだ」
十二月末に河村が言ったタイトル。一字も変わっていない。ジャーナリストの直感は正しかった。
テレビの音声が聞こえてくる。NHKのニュース。「東京地検特捜部は本日、ダンジョン関連産業における大規模な再保険詐欺の疑いで、関係先三か所に家宅捜索を——」
アナウンサーの声が、病室の白い壁に反響している。
八か月。
四月にこの案件が始まってから、八か月。最初は一枚の保険金請求書だった。雷電グループの架空事故。四億七千万円。それが五社に広がり、百五十億円になり、ダンジョン庁の外郭団体まで汚染されていた。
わたしはベッドの上で、左目だけで窓の外を見た。冬晴れの空。この空の下で、検察が三か所に踏み込んでいる。段ボール箱を運び出している。パソコンを押収している。わたしが読み取った文字が、今、物理的な証拠として回収されている。
*
午後。携帯が鳴った。見知らぬ番号。
出た。
「宇津木さん。——芝山です」
声を聞いた。穏やかな声。四十五歳の声。だが、以前と何かが違う。声の芯が抜けている。
「芝山さん」
「ニュースを見ました。——わたしは今朝、ダンジョン庁に辞表を出しました」
わたしは何も言わなかった。
「逮捕はされないそうです。わたしの関与は、情報の流通管理——要するに、鶴岡に情報を流していたこと。直接的な犯罪行為の立証は難しいと、弁護士が言っています」
「芝山さん。あなたは逮捕されるべきですか」
長い沈黙。病室のエアコンの音が、低く響いている。窓ガラスの向こうで、風が鳴っている。
「……分からない。分からなくなりました」
声が震えていた。芝山幸雄の声が震えるのを、初めて聞いた。竹橋の庁舎で、査察班の班長室で、三豊ビルの事務室で——芝山の声は、いつも穏やかだった。穏やかさの下に硬さがあった。今は、その硬さが折れている。
「宇津木さん。一つだけ」
「はい」
「——あなたが正しかった」
電話が切れた。
わたしは携帯を枕元に置いた。左目で天井を見た。蛍光灯が安定して光っている。病院の蛍光灯はちらつかない。三豊ビルの蛍光灯とは違う。
芝山は正しかったと認めた。
芝山の声は——青だっただろう。見えなかった。電話越しでは色は読めない。だが、声の震えが嘘でないことは、スキルがなくても分かった。
だが、認めたからといって、消えた十二年間は戻らない。神崎の弟子として過ごした十二年。門番として守り続けた十二年。その時間は、辞表一枚では清算できない。
*
夕方。蓮田が病室に来た。マグカップは持っていない。代わりに缶コーヒーを二本、サイドテーブルに置いた。ジョージアの微糖。
「飲めるか」
「左手で持てます」
プルタブを開ける音。コーヒーの甘い匂い。缶の冷たさが、掌に触れた。一口飲む。舌に甘さが広がる。微糖と言いながら、充分に甘い。
「鶴岡武彦は任意同行で特捜に入った。逮捕は明日になる見込みだ」
「神崎良一は」
「同じく任意同行。——六十八歳の元ダンジョン庁幹部が、特捜の車に乗せられるのを、NHKのカメラが撮ってた。白髪の老人が車に乗り込むところをな。あの顔は、芝山が『ダンジョン行政の父』と呼んだ男の顔だ」
神崎良一。芝山の師匠。十二年前にダンジョン保険制度を設計した男。その功績は消えない。だが、功績の上に積み上げた犯罪も消えない。
「水守は」
蓮田が缶コーヒーを一口飲んだ。飲んでから、口を歪めた。甘すぎたのかもしれない。
「水守は——消えた」
「消えた」
「昨日の時点で事務所に姿がない。弁護士資格を使って、依頼人との守秘義務に基づく海外渡航を申請している。——シンガポールだ」
わたしは缶コーヒーを膝の上に置いた。金属の冷たさが太ももに伝わった。
「検察の手は」
「出国前だ。出国禁止命令は間に合わなかった。水守は告発書の提出を知った時点で、逃走経路を準備していた。——あの男は、最初から国内に留まる気がなかったのかもしれない」
水守達也。法の刃。鶴岡の代筆者。神崎のメールで名前が出ていた。『水守に連絡した。シンガポールのファンドは動かすな。海外は残す』。国内が崩壊することを想定して、海外のネットワークは温存されていた。
蓮田が缶コーヒーを飲み干した。空き缶をサイドテーブルに置く。乾いた音。
「水守は逃げた。——だが、あの男はいずれ戻ってくる。法律がある限り、あの男の戦場は消えない」
わたしは左目で蓮田を見た。五十歳の横顔。缶コーヒーの空き缶を見つめている。蓮田は水守の逃亡を悔しがっていない。予測していたのだろう。水守という人間の合理性を、蓮田は理解している。
「蓮田さん」
「何だ」
「芝山さんから電話がありました」
「……何て言ってた」
「『あなたが正しかった』と」
蓮田が空き缶に視線を落としたまま、しばらく黙った。
「正しかったか。——まあ、遅いけどな」
窓の外が暗くなり始めている。一月十日の夕暮れ。東京の空が紺色に変わっていく。
芝山は正しかったと認めた。
蓮田が立ち上がった。コートを腕にかけた。
「退院は」
「あと一週間か二週間。右目次第です」
「待ってる。——第三課の蛍光灯は、まだちらついてるからな」
蓮田が出ていった。足音が廊下を遠ざかる。
でも、認めたからといって、消えた十二年間は戻らない。




