第88話「約束」
左目に光が戻ったのは、一月五日の朝だった。
ぼんやりとした輪郭。病室の天井の蛍光灯が、白い滲みとして見える。右目は暗闇のまま。左目だけが、世界を薄い灰色に映し始めていた。
医師が懐中電灯を目に当てた。瞳孔の反応を確認している。
「左目は反応が出始めています。右目はもう少し時間がかかるでしょう。——無理をしなければ、左目は数日で輪郭が戻ります」
医師が退室した。わたしは左目で部屋を見た。形が分かる程度。色はまだ曖昧。窓の向こうに空があることだけは分かった。
携帯が鳴った。蓮田。
「宇津木。目はどうだ」
「左目だけ、少し見えるようになりました」
「行けるか」
「どこにですか」
「品川。雷電本社ビル。——鶴岡修一に会いに行く。堤がアポを取った」
わたしは一秒だけ黙った。昨夜、早乙女に頼んだ。間違った使い方をしようとしていたら止めてくれ、と。その約束は、まだ有効。
「行きます」
*
午後二時。品川の雷電本社ビル。三十二階建てのガラス張りのオフィスビル。一階のロビーに早乙女とわたしが立った。
わたしの左目は、輪郭が見える程度まで回復している。右目には、黒い眼帯をしている。眼鏡は外した。片目に眼帯をした状態で眼鏡は機能しない。顔が裸のように感じる。十年以上眼鏡をかけてきた顔が、眼鏡なしの世界に放り出されている。
早乙女が隣に立っている。背筋が伸びている。百六十七センチ。茶髪のショートカット。スーツではなくジャケットにジーンズ。探索者の服装。
「宇津木。本当に大丈夫か」
「大丈夫です」
「嘘つけ。——左目だけで色が見えるのか」
「見えます。精度は落ちますが、青と黒の区別はつきます」
受付で名前を告げた。鶴岡修一との面会。堤が設定したアポイント。「元組対の刑事の名前は、この手の人間にはよく効く」と堤は言った。堤は別動で、ビルの周辺を監視している。沢渡は第三課で、蓮田の指揮のもと証拠の最終整理を続けている。
受付の女性がわたしの眼帯を見て、一瞬だけ目を逸らした。品川のオフィスビルに、眼帯の男は場違いだろう。だが、わたしは場違いな場所で書類を読むのが仕事だ。
エレベーターが二十八階で止まった。フロア全体がエグゼクティブオフィス。カーペットが厚い。空調の音が静か。品川港南口の景色が、ガラス越しに広がっている。左目で見ると、景色がぼやけている。だが、建物の輪郭は分かる。
秘書に案内された会議室。楕円形のテーブル。革張りの椅子。三豊ビルのパイプ椅子とは違う世界。ここは金で作られた空間。
鶴岡修一が入ってきた。
三十八歳。桐生鷹志とほぼ同年代。だが、桐生のようなカリスマはない。スーツは仕立てがいい。ネクタイはダークブルー。元マッキンゼーの経営者。合理的で、冷静で、若い。
わたしはTier 1を起動した。左目だけで視る。
修一の色は——青と黒の混合。黒の面積は桐生より小さい。黒を被せ慣れていない。隠しているが、隠し切れていない。青の部分が大きい。この男は、根本的には嘘が下手。
「宇津木さん。——お目にかかれて光栄です。叔父から話は聞いています」
黒。社交辞令。「光栄」ではない。だが、敵意も薄い。むしろ、警戒。
「鶴岡修一さん。わたしは損害査定部第三課の宇津木伊吹です。こちらは早乙女灯里」
「C級探索者の方ですか」
「元、ですけどね」と早乙女が言った。
修一が椅子に座った。テーブルの上に、ペットボトルの水が置いてある。修一の手がペットボトルに触れたが、開けなかった。緊張している。三十八歳。マッキンゼーで鍛えた交渉術はあるだろう。だが、この種の交渉は経験がない。
「ご用件を伺います」
「単刀直入に言います。——一月一日の朝日ダンジョン投資事業組合事務所の火災。十二月三十一日のダンジョン安全推進機構サーバーの初期化。いずれも鶴岡武彦さんの指示で実行されたものです」
修一の顔が動かない。訓練された無表情。だが、ペットボトルに触れた指が一瞬引っ込んだ。
「何の証拠があって——」
「鶴岡武彦さんから推進機構情報システム課長宛のメール。『全データを初期化せよ。作業報告は年末メンテナンスの名目で処理しろ』。東京地検特捜部が押収したサーバーから、わたしが直接読み取りました」
修一の目が揺れた。若い目。隠し慣れていない目。
わたしの左目が、修一の色を視ている。青と黒が入り混じっている。だが、黒が薄くなっていく。衝撃が隠蔽の層を剥がしている。
「さらに、神崎良一さんから鶴岡武彦さん宛のメール。『水守に連絡した。シンガポールのファンドは動かすな。国内だけ消せ。海外は残す』」
修一が椅子の背に体を預けた。天井を見た。長い沈黙。
わたしはTier 3を使える状態にある。左目だけでも発動は可能。修一に「証拠隠滅を停止する」と言わせて、言質拘束で縛る。物理的に止められる。
早乙女が隣に座っている。わたしの左側。視界の端にいる。止めてくれ、と頼んだ。間違った使い方をしようとしていたら。
Tier 3を使わない。
代わりに、わたしは鞄から書類を取り出した。左目で書類を確認しながら、テーブルの上に並べた。沢渡のデータ。堤の証言記録。Tier 4で読み取った裏帳簿の書き起こし。佐伯弁護士が整理した法的論点。
「鶴岡修一さん。これが、わたしたちが持っている証拠の一部です。全てを検察に提出済みです。——検察は年明けに動きます」
修一は書類を見た。手に取った。ページをめくった。指先が震えている。元マッキンゼーの合理主義者。数字を読む訓練を受けた人間。だからこそ、この書類の意味が分かる。
「あなたは叔父のために人生を賭けますか」
修一が顔を上げた。
「それとも、ここで降りますか」
修一の目がわたしを見ている。眼帯をした三十三歳の男。左目だけで見つめ返している。
「……降りる、とは」
声が掠れていた。
「証拠隠滅を停止し、検察の捜査に協力してください。——あなた自身の判断で」
あなた自身の判断で。わたしはこの言葉を選んだ。Tier 3は使わない。強制もしない。脅迫もしない。証拠を見せた。事実を伝えた。残りは、この男が自分で決める。
修一が書類をテーブルに置いた。ペットボトルの水を開けた。一口飲んだ。喉仏が動くのが左目で見えた。
修一は何も答えなかった。
会議室の空調が低く唸っている。テーブルの表面に、修一の指紋が残っている。書類をめくった跡。数字を追った跡。三十八歳の指が、自分の人生の分岐点に触れた跡。
桐生鷹志なら、ここで嘘をついただろう。巧妙な嘘。青と黒を混ぜた、見分けのつかない嘘。鶴岡武彦なら、沈黙しただろう。黒一色の沈黙。修一はどちらでもない。嘘もつけず、沈黙もできず、ただ揺れている。
それでいい。揺れているなら、まだ選べる。
早乙女が立ち上がった。「帰るぞ、宇津木」
わたしも立ち上がった。書類はテーブルに置いたまま。修一の手元に残す。
ドアに向かった。背中に、修一の視線を感じた。見えないが、分かる。視線の重さは、目が見えなくても感じ取れる。
エレベーターの中で、早乙女が言った。
「使わなかったな」
「はい」
「止めなくてよかったか」
「止めなくて、よかったです」
早乙女が小さく頷いた。エレベーターが一階に着いた。品川港南口の風が、自動ドアの向こうから吹き込んできた。一月の冷たい風。海が近い匂い。
力を使わなかった。
それが、正しい使い方だった。




