第87話「暗闇の決断」
暗い。
一月四日。宇津木伊吹は病院のベッドに横たわっていた。都内の眼科専門病院。個室。窓があるはずだが、光を感じない。右目も左目も、完全な暗闇。
医師の声は穏やかだった。
「視覚神経の過負荷による一時的な機能停止です。MRIでは器質的な損傷は確認されていません。回復までに一週間から三週間」
「三週間」
蓮田の声が暗闇の中に響いた。ベッドの左側にいる。椅子を引く音が先にした。
「三週間。——その間に、鶴岡は全てを消し終える」
医師が退室した。ドアが閉まる音。廊下のスリッパの足音が遠ざかる。消毒液の匂いがシーツに染みている。
蓮田が黙っている。黙っている蓮田は、考えている蓮田だ。
「宇津木。昨日の読み取りで、何が手に入った」
「鶴岡から推進機構への直接指示メール。神崎から鶴岡へのメール。出資者リストと資金フローの詳細。口座番号。——沢渡さんが全て記録しています」
「充分か」
「充分です。ただし、それは検察が動けばの話です。保全命令が出ていても、物理的な証拠隠滅は止められない。火事は止められないし、ハードディスクを物理的に破壊することも——」
「堤が片桐に要請している。推進機構の残りのサーバーと鶴岡修一のオフィスのPCの押収」
「鶴岡修一は応じますか」
蓮田が鼻で笑った。「応じなきゃ、令状を取る。堤は段取りが速い」
蓮田が椅子から立ち上がった。コートを腕にかける衣擦れの音。
「沢渡が証拠の整理をしてる。俺は第三課に戻る。——有坂が待ってる。軟膏をまた持ってきたいらしい」
「有坂さんに伝えてください。ありがとうございます、と」
「自分で言え。——三週間後に」
蓮田が出ていった。廊下を歩く足音が遠ざかる。スニーカーの柔らかい音。
一人になった。暗闇と、消毒液の匂いと、ベッドのシーツの肌触りだけが残った。点滴のチューブが左手の甲に刺さっている。管の中を液体が流れる、微かな冷たさ。
*
午後三時。堤が見舞いに来た。
足音で分かった。堤の靴は革底。床を踏む音が硬い。蓮田のスニーカーとは違う。
「宇津木さん。鶴岡修一の動きについて報告がある」
「どうぞ」
「修一は昨日から雷電本社ビルに籠もっている。出入りは確認できているが、外部との面会は拒否。弁護士以外は通さない」
「弁護士は」
「水守達也だ」
暗闇の中で、水守の名前が響く。まだ国内にいる。シンガポールには渡っていない。法的な防衛線を張っている。
堤が続けた。「佐伯弁護士に相談したが、問題がある。沢渡さんが記録したデータは、宇津木さんのスキルで読み取ったものだ。スキルの信頼性が法廷で争われれば、証拠が無効になるリスクがある」
「物理的な証拠が残っていれば、フォレンジックで復元できるものもあるでしょう」
「三回上書きだ。フォレンジック担当者は『通常のツールでは無理』と言った。——スキルの読み取りを裏付ける物理証拠がなければ、水守は法廷で全部潰しにかかる」
わたしは暗闇の中で天井を向いた。見えない天井。
鶴岡修一を止める方法がある。
Tier 3。
言質拘束。相手が自発的に述べた約束を、拘束力を持った契約に変換する能力。もし鶴岡修一に直接会い、「証拠隠滅を停止する」と自分の口で言わせれば——Tier 3で拘束できる。物理的に、その約束を破れなくなる。
堤の靴音が床を踏んだ。立ち上がった。
「一つ方法がある。——宇津木さん、あんたのTier 3だ」
堤もそれを考えていた。元刑事は手段を選ばない。合法であれば。
「修一を拘束する法的根拠がなくても、スキルで約束を縛れば事実上の保全措置になる。検察が動くまでの時間を稼げる」
わたしは答えなかった。
堤が待った。元刑事は沈黙を圧力に変えない。取り調べ室ではないのだから。十秒ほど待って、靴音が一歩下がった。
「——考えておいてくれ。時間はあまりない」
堤が出ていった。革底の靴音がドアの向こうに消えた。
一人になると、暗闇が濃くなる。見えないということは、部屋の広さが分からないということだ。壁がどこにあるか分からない。天井の高さが分からない。自分の体がベッドの上に置かれている、その位置関係だけが確か。
看護師が食事を運んできた。プラスチックのトレイがサイドテーブルに置かれる音。味噌汁の匂い。白米の匂い。
「お箸は右側に置きますね」
「ありがとうございます」
箸を手探りで取った。味噌汁の椀を探す。指先が椀の縁に触れた。熱い。味噌汁をすする。豆腐の味がする。見えない食事。味覚だけが手がかりになる。
*
夜。病室の空気が変わった。昼間の消毒液の匂いに、外の冷気が混じっている。誰かが窓を開けたのだろう。一月の夜風が頬に触れた。
暗闇の中で、桐生の声が蘇る。
『使い方を間違えるな』
桐生鷹志。三十五歳。元雷電副代表。辞任退場した男。最後に残した忠告。あの言葉は、Tier 3についてではなかった。スキル全体について。力そのものについて。
Tier 3で鶴岡修一の言葉を縛る。合法。効果的。時間を稼げる。だが——
それは鶴岡武彦がやったことと同じではないか。
鶴岡は言葉を道具にした。人の発言を、隠蔽の材料にした。黒一色の男。全ての言葉を意図的に選び、意味を覆い隠す。
わたしがTier 3で修一の言葉を縛れば、それは「人の言葉を支配する」ことになる。相手の意志を無視して、口にした言葉を拘束する。鶴岡の手法と、鏡写し。
追い詰めて「自発的に」言わせるのは、どうか。自発的に見せかけて、実質的には強制。グレーどころか、限りなく黒に近い。
わたしの手にはその力がある。左目だけでもTier 3は発動できる。視界がなくても、声が聞こえれば色は読める。目が見えないからこそ、耳が研ぎ澄まされている。
使える。
使うべきか。
暗闇の中で自分の手を見下ろした。見えない。三十三歳の手。眼鏡のブリッジを直す癖がある手。書類をめくる手。付箋に名前を書く手。——人の言葉を縛る手には、まだなっていない。
桐生は、あの忠告を本気で言った。青だった。嘘のない色。桐生自身が力の使い方を間違えた人間だからこそ、あの言葉に嘘がなかった。間違えた人間だけが知っている、正しさの輪郭。
ドアが開いた。スニーカーの足音。早乙女。
「宇津木。起きてるか」
「起きています」
早乙女がベッドの横に座った。パイプ椅子が軋む音。ビニール袋を置く音。
「みかん。有坂からだ。見舞いの定番だろって」
「ありがとうございます」
「堤から聞いた。Tier 3の話」
「はい」
「で、どうする」
「……まだ、決めていません」
早乙女が黙った。早乙女の沈黙は短い。短い沈黙は、言葉を選んでいるのではなく、言うべきことを言うタイミングを測っている。
「あたしに何ができるか、言ってくれ」
「早乙女さん」
「何だ」
「もし——わたしが間違った使い方をしようとしていたら、止めてください」
早乙女が息を吸った。吸って、止めて、吐いた。長い息。
「分かった。——止める」
短い答え。だが、早乙女の短い答えには、長い決意が詰まっている。C級探索者がバディに約束するときの声。ダンジョンの中で、互いの命を預けるときの声。
暗闇が少しだけ、軽くなった気がした。
窓の外で、救急車のサイレンが遠くに鳴っている。一月四日の夜。東京の夜。
力は持っている。
だが、その力を使うことが正しいかどうかは、目が見えなくても、分かる。




