第86話「灰の文字」
サーバーは灰色の金属筐体だった。
一月三日。東京地検特捜部の証拠保管室。地下一階。窓のない部屋。蛍光灯の白い光が、ラックに固定されたサーバー二台を照らしている。ダンジョン安全推進機構から押収された機材。堤が片桐検事に年始の電話を五回かけて、二日で押収にこぎつけた。
片桐検事が立会人として同席している。その隣に、検察のデジタルフォレンジック担当者。三十代の女性。白手袋をはめている。
「初期化済みです。通常のフォレンジックツールでは、復元できないレベルのワイプが施されています。ゼロフィル方式。三回上書き」
フォレンジック担当者の声は事務的。三回上書き。通常のデータ復元では対処できない。
「ただし」
担当者が手袋の指でハードディスクの側面を指した。
「物理的な破壊はされていません。磁気パターンの残存可能性は、ゼロではない。通常の手段では読めませんが——」
担当者がわたしを見た。片桐が事前に説明したのだろう。スキルによる読み取り。法的な証拠能力には議論があるが、捜査の端緒としては認められる。
わたしはサーバーの前に立った。
隣に早乙女がいる。後ろに堤と沢渡。沢渡はノートPCを開いて、記録の準備をしている。有坂は部屋の隅で軟膏の瓶を膝に置いている。蓮田は第三課で待機。全体の指揮を取っている。
「宇津木さん。準備ができたらどうぞ」
片桐の声。わたしは頷いた。
右目の奥が、ちらついている。通算四回のTier 4使用。今日が五回目。月二回の上限は遥かに超えている。恒久的な損傷の可能性。有坂の軟膏が三本。
わたしはハードディスクに右手を置いた。金属の冷たさ。指先に微かな振動。ハードディスクは回転していない。電源が入っていない。だが、磁気パターンは物理的に存在する。初期化されても、三回上書きされても、完全には消えない微弱な残留磁気。
【真贋鑑定】Tier 4。起動。
視界が反転した。
*
世界が灰色になる。色が消える。証拠保管室の蛍光灯が灰色。片桐のスーツが灰色。早乙女の茶髪が灰色。全ての色彩が抜け落ちて、灰色の濃淡だけの世界になる。
そして——ハードディスクの表面に、白い文字が浮かんだ。
微かな文字。前回のTier 4で読んだ黒塗り文書の白い文字よりも、さらに薄い。三回上書きされた磁気パターンの残留。文字というよりも、文字の影。消された文字が残した痕跡。
読める。薄い。消えかけている。だが、読める。
わたしは口を開いた。声が出ることを確かめてから、読み上げを始めた。
「——ファイル名、経理台帳二〇二四年度。フォルダパス、内部管理、決算」
沢渡のキーボードを叩く音が、灰色の世界に響く。規則的な打鍵。沢渡は速い。わたしの読み上げに遅れない。
「出資者リスト。第一号、鶴岡武彦。拠出額、年間三億四千万円。第二号、神崎良一。拠出額、年間一億二千万円。第三号——」
頭蓋が軋んだ。
前回までとは質が違う。Tier 4の反動が、五回目のハードルを超えた瞬間に変わった。こめかみの痛みではない。頭蓋の骨そのものが内側から押し広げられるような圧迫。眼球の裏側に、熱がある。溶けた金属を流し込まれたような感覚。
「——第三号、水守達也。拠出額、年間八千万円。運用益の配分比率、鶴岡四十五、神崎二十五、水守三十」
「宇津木さん。顔色が——」
沢渡の声が遠い。わたしは読み上げを続けた。
「資金還流先。アークライト・リインシュアランス経由、ロンドン口座番号——」
口座番号を十六桁読み上げた。沢渡がキーボードを叩く。数字の羅列。白い文字が灰色の視界を泳いでいる。文字が揺れ始めた。磁気パターンの残留が限界に近い部分は、文字が明滅する。読めるのは今だけ。時間が経てば、残留磁気も消えていく。
額に汗が浮いている。冷たい汗。地下室の空調は低温に設定されているはずだが、体の内側が燃えている。指先だけが冷たい。ハードディスクの金属表面に置いた掌が、冷たい。
「——メール送信ログ。二〇二六年十二月二十九日。送信者、鶴岡武彦。宛先、推進機構情報システム課長。件名、緊急メンテナンス指示。本文——」
わたしの声が震えた。頭蓋の圧迫が強まっている。右目の視界が、灰色から白に変わり始めている。左目だけが辛うじて文字を追っている。
「本文。『全データを初期化せよ。作業報告は年末メンテナンスの名目で処理しろ。以上。鶴岡』」
堤が低く声を漏らした。「——直接指示だ」
鶴岡武彦本人からの、証拠隠滅の直接指示。メールの原文。これが検察に渡れば、鶴岡を逮捕できる。
「まだあります」
わたしは手を動かした。二台目のハードディスクに触れた。指先が震えている。体温が下がっている気がする。背中に冷や汗が流れている。シャツが背骨に張り付く感触。
「——神崎良一から鶴岡武彦宛。二〇二六年十二月三十日。件名なし。本文——」
読めない。
文字が揺れている。白い文字が灰色の中で明滅して、形を保てない。残留磁気が弱すぎる。三回上書きの壁が、ここで効いている。
わたしは意識を集中した。Tier 4の出力を上げる。壁を押す。押し返される。もう一度。
頭の中で何かが弾けた。
「——本文。『水守に連絡した。シンガポールのファンドは動かすな。国内だけ消せ。海外は残す。以上』」
読み上げた瞬間、色覚が完全に消えた。
灰色ではない。黒。完全な黒。視界が闇に沈んだ。
「止めろ!」
早乙女の声。左腕を掴まれた。強い力。C級探索者の腕力。
わたしの膝が折れた。床に崩れ落ちる。コンクリートの硬さが膝を打つ。早乙女が支えている。背中を抱えている。
何も見えない。灰色も白も消えて、完全な暗闇。
匂いだけがある。有坂の軟膏の薬草の匂い。近い。有坂がそばに来ている。
「宇津木さん。——目を開けてください」
有坂の声。近い。震えている。
わたしは目を開けた。
開けたはずだ。瞼が上がる感覚はある。睫毛が動く感触はある。だが——
暗い。
何も見えない。
「……見えません」
自分の声が、遠くから聞こえた。
有坂の指が、わたしの瞼に触れた。柔らかい。軟膏の冷たさが目の周りに広がる。薬草の匂いが鼻腔を満たす。だが、視界は変わらない。暗闇。完全な暗闇。
「見えない。右目も、左目も——何も見えません」
沢渡のキーボードを叩く音が止まった。
片桐検事の革靴が、コンクリートの床を踏む音がした。
堤が何か言っている。聞き取れない。
早乙女の腕だけが確かだった。左腕を掴んでいる。離さない。わたしの体を支えている。C級探索者が仲間を支えるときの、迷いのない腕。
「全部読んだか」
早乙女の声。耳元。
「……全部、読みました」
沢渡の声が震えている。「全て記録しました。鶴岡の直接指示メール。神崎のメール。口座番号。出資者リスト。——全部あります」
片桐検事の声が聞こえた。落ち着いた、低い声。「——救急車を呼びます」
「いえ」とわたしは言った。暗闇の中で。「病院に行きます。自分で。——救急車は、目立ちます」
堤が何かを言いかけて、止めた。元刑事は、捜査中に目立つことの意味を理解している。
有坂の手が、わたしの右手を取った。小さな手。軟膏の匂いが染みついた指。立ち上がる。膝が震えている。早乙女が左腕を支えている。二人に支えられて、わたしは立った。
見えない。何も見えない。暗闇の中に、ハードディスクの金属の冷たさだけが、掌に残っている。
証拠は救った。
目の代わりに。




