第85話「新年」
堤からの電話は、一月二日の午前六時に鳴った。
三豊ビル北館十二階。わたしは事務室の仮眠用ソファで毛布にくるまっていた。年始の休暇は取っていない。携帯の振動が腹の上で跳ねる。画面を見る前に、嫌な予感がした。
「宇津木さん。鶴岡が動いた」
堤の声は低く、平坦。元刑事が緊急連絡で声を荒げない。その落ち着きが、事態の深刻さを伝えている。
「朝日ダンジョン投資事業組合の事務所が、昨夜燃えた。公式には漏電。だが、火元は書庫だ。偶然にしちゃあ都合がいい」
わたしは起き上がった。毛布が床に落ちた。窓の外は暗い。一月二日の早朝。東京は灰色の空。
「火災の規模は」
「書庫と事務室が全焼。紙の書類は、全滅だ。サーバールームは——消火器で消し止められたが、ハードディスクに水をかけてる。復旧は無理だろう」
「——証拠隠滅ですね」
「間違いない。だが、立証できない。漏電の調査は、消防がやる。放火の証拠が出なければ、事故で処理される」
わたしは深く息を吐いた。空調の乾いた風が、うなじに触れた。予測はしていた。蓮田も予測していた。鶴岡が年末年始の空白を利用することは、告発書を提出した日から分かっていた。
「場所は」
「中央区日本橋。築三十年のテナントビル四階。火は、午前二時に出ている。周辺のテナントは、年末休業で無人だった。負傷者なし。——証拠を焼くにしても、手際がいい」
堤の声に怒りはない。事実を並べている。元刑事は事実から推理する。感情は後回し。
「堤さん。大丈夫です」
「何が大丈夫だ」
「証拠は、全て写しを取ってあります。原本が焼けても、わたしたちの手元にコピーがある。沢渡さんが、クラウドと物理メディアの二重バックアップを維持しています」
堤は五秒ほど黙った。「——用意がいいな」
「八か月間、水守達也と向き合ってきましたから。証拠が消される前提で動くのは、もう慣れました」
*
午前八時。第三課に六人が揃った。
蓮田が一番乗り。わたしが二番。沢渡は七時半に来て、ノートPCを広げている。堤は張り込みから直接来た。コートに、夜露の匂いが残っている。早乙女は八時ちょうどに扉を開けた。有坂しおんが最後に入ってきた。手に紙袋を下げている。
「あけまして、おめでとうございます」
有坂が頭を下げた。紙袋からコンビニのおにぎりが六つ出てきた。鮭、昆布、明太子。有坂らしい差し入れ。
蓮田がおにぎりを受け取った。「正月早々、おにぎりで作戦会議か。——風情がないな」
「正月に休む風情もないですけど」と早乙女が言った。茶髪のショートカットが乱れている。走ってきたのだろう。
六人。蓮田亮介。早乙女灯里。有坂しおん。堤真司。沢渡梢。そしてわたし。一年前は二人だった部署が、八か月で六人になった。全員が正月休みを返上して、このちらつく蛍光灯の下にいる。
沢渡がノートPCの画面を全員に向けた。眼鏡のレンズに、蛍光灯の光が反射する。小柄な体が、前のめりになっている。年始の挨拶もなく、数字の話に入る。沢渡はそういう人間だ。
「もう一つ、悪い知らせがあります。——ダンジョン安全推進機構のサーバーが昨夜リセットされました。年末メンテナンスの名目です。全データが初期化されています」
蓮田がおにぎりの包みを開ける手を止めた。
「全データ。——何月何日のメンテナンス名目だ」
「十二月三十一日付の作業報告です。担当者名は推進機構の情報システム課長。ただし——」
沢渡が画面をスクロールした。眼鏡の奥の目が据わっている。
「メンテナンスの作業指示書が出たのは、十二月二十九日です。告発書を提出した翌日。通常のメンテナンス計画にはこのタイミングでの全データ初期化は含まれていません。定期メンテナンスは、毎年三月です」
早乙女が腕を組んだ。「三月のメンテナンスを十二月にやる理由は一つしかない」
堤が壁にもたれた。「つまり鶴岡は、告発書の提出を知ってた。——芝山からか」
芝山は辞職していない。告発書の提出時点ではまだダンジョン庁に籍がある。芝山が鶴岡に情報を流す経路は残っている。
蓮田がおにぎりを一口かじった。昆布。咀嚼しながら考えている。
「原本の火災。サーバーの初期化。——二方面同時だ。鶴岡は本気で証拠を消しにかかってる」
「蓮田さん」とわたしは言った。「原本がなければ裁判で使えない証拠があります。デジタルの写しだけでは証拠能力が弱い。特に、Tier 4で読み取った裏帳簿は——わたしが読み上げて沢渡さんが書き取った記録しかない。原本のサーバーが消えれば、検察が独自に検証する手段がなくなります」
蓮田が噛む手を止めた。おにぎりの海苔が唇の端に貼りついている。
「Tier 4で——もう一度、読めるか」
部屋が静かになった。空調の音。蛍光灯のちらつき。六人分の沈黙。
わたしは右目の奥のちらつきを感じた。通算四回。五回目は、恒久的失明のリスクがある。有坂が膝の上で手を握りしめているのが、左目の端に見えた。
「消えたデータでも、物理的な記録媒体が残っていれば、読めるかもしれません」
堤が口を開いた。「初期化とは論理的な消去だ。ハードディスクの磁気パターンは残存する場合がある。物理的に破壊しない限り——」
「Tier 4は、黒塗りを貫通できます。暗号化も貫通できた。——初期化の向こう側も、読める可能性はあります」
早乙女が立ち上がった。椅子の脚がリノリウムの床を擦った。
「待て。五回目だろ。前回で目がどうなったか、忘れたのか」
「忘れていません」
「右目のちらつきが治ってないのに、また使うのか」
「必要であれば」
早乙女がわたしの顔を見た。二十八歳の目。C級探索者の目。ダンジョンの中で危険を嗅ぎ取る訓練を積んだ目。
何も言わなかった。
有坂が立ち上がった。鞄から包みを取り出す。布に巻いたガラス瓶が三本。
「軟膏です。年末に、三本、作りました。——足りますか」
瓶のラベルに有坂の手書き。『回復軟膏・強効』。スキル【回復軟膏精製】で作った特注品。有坂はこの年末、帰省もせずに軟膏を精製していたのだろう。薬草の青い匂いが、布の隙間から漏れている。
わたしは瓶を手に取った。ガラスの冷たさが、掌に伝わった。百五十七センチの小柄な体。二十二歳の手が作った、三本の瓶。わたしの目を守るための、有坂の年末年始。
「足りないかもしれません」
有坂が唇を噛んだ。
蓮田がおにぎりの最後の一口を飲み込んだ。マグカップのコーヒーで流した。
「堤。推進機構のサーバーの押収はできるか」
「検察に要請する。保全命令が出ていれば、物的証拠として押収できるはずだ。——片桐検事に連絡する」
「沢渡。デジタルの複製データで裁判に使えるものを仕分けろ。原本がなくても証拠能力を維持できるものと、できないものを分けてくれ」
「了解です」
「早乙女。有坂。——宇津木のそばにいろ」
蓮田は命令口調にならない。ぼやくように言う。だが、六人がそれぞれ動き始める。椅子が引かれ、キーボードを叩く音がして、携帯を耳に当てる声が重なる。
窓の外に正月の空がある。一月二日。初詣に向かう人の姿が、十二階から小さく見える。この部屋だけが、祝日を拒んでいる。
壁の付箋を見た。七枚。変わっていない。だが、七枚の向こう側で、証拠が燃えている。サーバーが消えている。
堤が携帯を耳に当てている。片桐検事の番号。正月二日に検事に電話をかける元刑事。「出ないか」。堤が画面を見て、もう一度かけ直した。
敵は証拠を焼いた。
だが、灰の中にも、文字は残る。




