第84話「提出」
百二十二枚。
宇津木伊吹は革鞄の重さを右手に感じながら、霞が関の歩道を歩いていた。十二月二十八日、土曜日。午前九時十二分。東京地検特捜部が入る中央合同庁舎第六号館は、年末の静けさの中にある。
隣を蓮田が歩いている。コートのポケットに両手を突っ込んで、白い息を吐いている。
「年末に特捜に飛び込む人間も珍しいだろうな」
「受理されなければ、年明けにもう一度来ます」
「受理される。——百二十二枚と四百三十八枚を持ち込まれて、門前払いにする検事はいない」
蓮田の声は低い。確信ではなく、経験から出た言葉。五十歳の管理職が、三十年近く書類と向き合ってきた時間の厚み。
*
受付で名前を告げた。予約は取ってある。佐伯弁護士が、事前に調整した面談枠。沢渡が金融庁の出向元を通じて、特捜部の担当検事に概要を伝えてある。
三階の面談室に通された。長机にパイプ椅子。蛍光灯は、安定している。三豊ビルの蛍光灯とは違う。壁に掛け時計がある。秒針が動いている。この部屋では、時間が正確に刻まれている。
検事が入ってきた。四十代前半。名前は片桐。黒いスーツ。髪を短く刈り込んでいる。目つきが鋭い。だが、鋭さの中に職業的な忍耐がある。膨大な書類を読み慣れた人間の目。
「宇津木伊吹さん。三豊ダンジョン保険、損害査定部第三課」
「はい」
「告発書をお持ちいただいたと伺っています」
わたしは革鞄を開けた。A4百二十二枚の告発書。四百三十八枚の添付資料。水守達也の機密情報偽装に対する反論書面。全てをテーブルの上に並べた。
片桐検事が、書類の束を見た。厚さを確認するように、右手で端を軽く持ち上げた。
「——これだけの量ですか」
「百二十二枚が本文です。添付が四百三十八枚。合計五百六十枚」
蓮田が補足する。「五社のクランを経由した保険金洗浄が年間推定八十億円。ダンジョン庁外郭団体を経由した還流が七十億円。合計百五十億円の再保険詐欺スキームです。主謀者は鶴岡武彦、神崎良一、水守達也の三名」
片桐が書類の最初のページをめくった。わたしの名前と蓮田の名前が並んでいる。告発者。連名。
「鶴岡武彦。雷電グループ会長」
「はい」
「神崎良一。ダンジョン安全推進機構理事長」
「元ダンジョン庁幹部です」
片桐の眉が動いた。行政側の人間が含まれている。この瞬間、告発書の性質が変わる。民間の詐欺事件ではなく、官民癒着の構造犯罪。特捜部の管轄。
「添付資料の中に、ダンジョン庁の内部文書は含まれていますか」
「含まれています。ただし、全て内部通報者保護法の適用範囲内で取得したものです。取得経緯は、反論書面の第四章に記載しています」
片桐が反論書面を手に取った。水守からの機密漏洩告訴の脅迫に対する先制防御。佐伯弁護士と沢渡が、三日かけて仕上げた文書。
十五分ほど、片桐は黙って書類を読んだ。蓮田はパイプ椅子の背もたれに体を預けて、天井を見ていた。掛け時計の秒針が刻む音だけが響いている。わたしは片桐の手の動きを見ていた。ページをめくる速度が、安定している。読み飛ばしていない。
片桐が顔を上げた。
「これだけの規模であれば、年明けに専従チームを編成します。——一月六日に改めて連絡します」
蓮田が口を開いた。「一月六日。——年末年始を挟む。その間に証拠隠滅が行われる可能性は」
「承知しています。受理した以上、保全命令の準備は進めます。ただし、正式な捜査開始は年明けです。人員の確保に、時間がかかる」
一週間。その間に、鶴岡と水守が動く時間がある。
*
庁舎を出た。冬の空気が、頬に触れた。排気ガスと落ち葉の混じった匂い。霞が関の街路樹は、葉を落としている。
「受理された」
「ああ。——受理された」
蓮田が煙草に火をつけた。セブンスターのフィルターを唇に挟んで、白い煙を吐く。
「蓮田さん。一週間です」
「分かってる。——鶴岡が何もしないわけがない」
わたしは携帯を取り出した。河村葵の番号を呼び出す。三回のコールで出た。
「宇津木さん。提出は」
「完了しました。——河村さん。年明けまで記事は出さないでください。検察が動く前に出すと、証拠隠滅の口実を与えます」
「分かっています。——でも、年明け三日には出します。独占記事です。タイトルは、もう決めてある」
「何というタイトルですか」
「『百五十億円の闇』。——地味ですか?」
「充分です」
電話を切った。蓮田が煙草の灰を落とした。「河村は腹が据わってるな。年末にタイトルを決めてるジャーナリストも珍しい」
桜田通りを北に歩いた。年末の官庁街は、人が少ない。信号待ちの交差点で、蓮田が煙草を靴底で消した。
「堤と沢渡に連絡しろ。バックアップ組にも」
「もう沢渡さんが共有しています。堤さんは、今朝から張り込みです。鶴岡の自宅周辺」
「堤らしいな」
蓮田が鼻で笑った。元刑事は体が動く。書類を待てない。蓮田とは正反対。だが、この一週間に必要なのは堤の嗅覚のほうかもしれない。
わたしは沢渡に短いメッセージを送った。『受理済。片桐検事。一月六日に連絡。保全命令準備中』。三十秒で返信がきた。『了解です。バックアップのコピーを追加で一部作ります』。沢渡の仕事は正確で、速い。
日比谷公園の前で、タクシーを拾った。蓮田が先に乗り込む。シートの革の匂い。暖房が効いている。
「三豊ビルまで」
運転手が頷く。年末の道路は、空いている。カーラジオから、天気予報が流れてきた。年末年始は全国的に曇り。太平洋側では、乾燥が続く。
蓮田が窓の外を見ていた。皇居の堀の水面が、曇り空を映して鈍い銀色に光っている。
「宇津木」
「はい」
「八か月だな」
八か月。四月にこの部署に来てから、八か月。蓮田はそれ以上何も言わなかった。言わなくていい。八か月の重さは、二人とも知っている。
***
大晦日。
三豊ビル北館十二階。損害査定部第三課。宇津木伊吹は事務室の机に向かっていた。午後八時。ビルの他のフロアは、消灯している。十二階の西端だけ、蛍光灯が点いている。
テレビの音はない。紅白歌合戦の気配もない。空調の低い唸りと、蛍光灯の微かなちらつきだけが事務室を満たしている。窓の外に、東京タワーの赤い光が見える。年越しのライトアップ。
壁の付箋を見た。七枚。黒・雷・水・乃・鶴・庁・神。
九か月前。四月にこの部署に異動してきたとき、壁に付箋は一枚もなかった。蓮田と二人だけの部署。蛍光灯がちらつく、西端の部屋。予算もなく、期待もされていない査定部門。
九か月で七枚になった。
机の上には何もない。提出した書類の控えは、USBに保存してある。沢渡が、二重にバックアップを取っている。堤が、物理コピーを別の場所に保管している。
マグカップに残ったコーヒーは冷めている。有坂が年末に持ってきた堀口珈琲のドリップパック。豆の酸味が冷えると強くなる。
右目の奥に、ちらつきが残っている。Tier 4の代償。通算四回の使用。月二回の上限を大幅に超えた。ちらつきが、常態化している。左目で補っている。
携帯が鳴った。早乙女灯里。
「宇津木。まだ会社にいるのか」
「片付けが残っていまして」
「嘘つけ。片付けなんか終わってるだろ。——一人で年越しすんな」
「一人ではありません。付箋が七枚ありますから」
早乙女が小さく笑った。「付箋と年越しするやつがあるか。——まあいい。年明けたら動くぞ」
「はい」
「おい、宇津木」
「何ですか」
「来年も、よろしく」
電話が切れた。
わたしは壁の付箋を見た。七枚。名前を書いた紙片。書類ではない。証拠でもない。ただの付箋。だが、この七枚が、百二十二枚の告発書よりも重い。名前には、人がいる。
百二十二枚の書類が、検察の机の上にある。
蛍光灯がちらつく。秒針が動く。午前零時まで、あと四時間。
年が明ければ、全てが動く。




