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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第三部『シンジケート』

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第83話「門番の告白」

 芝山幸雄が第三課に来たのは、十二月二十八日の午前七時だった。


 土曜日。告発書を東京地検特捜部に提出する日の朝。三豊ビル北館十二階。わたしは早めに出勤して、提出用の書類を鞄に詰めていた。A4百二十二枚の告発書。四百三十八枚の添付資料。水守への反論書面。全てを黒い革鞄に収めて、ファスナーを閉めた。


 革鞄は重い。紙の重さ。八か月分の調査を紙に変換すると、この重さになる。


 ドアが開いた。


 芝山が立っていた。グレーのコートに紺のマフラー。四十五歳の穏やかな顔。だが、目の下に隈がある。眠れていない顔。ネクタイが曲がっていた。芝山のネクタイが曲がっているのを見たのは初めてだった。


 芝山が例外案件係に来るのは初めてだった。竹橋合同庁舎の芝山は知っている。査察班の芝山は知っている。三豊ビルの芝山は、知らない。


「宇津木さん。——最後に、一つだけ話したい」


 最後に、と芝山は言った。これまで芝山がこの言葉を使ったことは一度もなかった。


「どうぞ。中に入ってください」


 芝山は事務室に足を踏み入れた。靴がリノリウムを踏む音。蛍光灯がちらついている。天井の西端の一本。八か月間、修繕されていない蛍光灯。芝山はそれを見上げた。竹橋の庁舎の蛍光灯は、安定している。この蛍光灯は不安定。芝山が知らない光。


 壁の付箋を見た。七枚。黒・雷・水・乃・鶴・庁・神。芝山は『庁』の付箋に視線を止めた。自分を指す一文字。二秒ほど見つめて、目を逸らした。



 蓮田が廊下から入ってきた。マグカップを持っている。芝山を見て、足を止めた。


「芝山」


「蓮田さん。——お邪魔しています」


 蓮田は芝山を見た。長い目。蓮田と芝山は同じダンジョン庁で十年以上の面識がある。年齢は蓮田が五つ上。役職は芝山が上。だが今、この部屋では蓮田が主であり芝山が客だった。


 蓮田が席を外そうとした。


「蓮田さんはいてください」


 わたしが言った。芝山の話をわたし一人で聞くべきではない。蓮田が聞くべきだ。


 芝山は頷いた。パイプ椅子に座った。コートは脱がなかった。長居する気がないのだろう。マフラーだけ外した。紺のマフラーを膝の上に畳む。丁寧な動作。


 わたしは【真贋鑑定】Tier 1を起動した。


「宇津木さん。お前たちは、神崎先生を犯罪者だと思っている」


「犯罪者です。百五十億円の再保険詐欺の行政側の首謀者です」


「違う」


 芝山の声が強くなった。初めて聞く強さ。穏やかさの仮面の下にあった硬い声。給湯室のほうから、水道管が軋む音がした。古いビルの音。


「神崎良一は、ダンジョン業界を作った人間だ」


 青と黒の複合。芝山はこれを信じている。


「十二年前。ダンジョンが出現した直後、探索者は誰にも守られていなかった。保険も補償も何もない。ダンジョンに入って死んだら終わり。遺族に一円も払われない。国も自治体も法整備が追いつかなかった。探索者の死亡率は、最初の二年で一割を超えていた」


 青。芝山の語る事実は真実だった。ダンジョン出現直後の混乱は記録に残っている。わたしも資料で読んだ。


「神崎先生がダンジョン保険制度を設計した。探索者保護のための保険スキーム。ダンジョン庁の設立にも関わった。安全基準の策定。クランの登録制度。査定官の養成プログラム。——この業界の形を整えたのは、神崎先生だ」


 芝山の目が遠くなった。十二年前を見ている目。若い頃の芝山が、神崎の背中を追っていた時代。空調の乾いた音が、事務室に低く響いている。


「その過程で、業界側と繋がりができた。鶴岡との関係も、最初は業界の安定のためだった。鶴岡は民間側で保険と再保険の仕組みを構築した。神崎は行政側で制度を設計した。二人で、ダンジョン保険という制度そのものを動かしていた」


 青と黒。事実と隠蔽が重なっている。事実の上に、正当化の層。


「繋がりが利権になった。利権が洗浄スキームになった。——でも、最初は正しかったんだ。探索者を守るために始まった仕組みが、いつの間にか、利権を守る仕組みに変わった。神崎先生自身も、どこで道を逸れたのか分かっていないかもしれない」


 青。芝山は、「最初は正しかった」と本気で信じている。その信念が、現在の加担を支えている。最初が正しかったから、途中で道を逸れたことが——許されるわけではない。だが芝山はそう信じなければ、自分自身を保てない。黄色が薄く被さっていた。主観の歪み。


「芝山さん。あなたは、正しかったから許されると思っていますか」


 芝山は長く黙った。


 蛍光灯がちらついている。西端の一本。不安定な光が、芝山の顔と膝の上のマフラーに影を落としていた。窓の外は冬の曇り空。十二月二十八日の朝は、灰色だった。


「……思っていない」


 低い声だった。


「許されるとは思っていない。——でも、わたしは神崎先生を裏切れない」


 青。


 これだけは嘘ではなかった。芝山幸雄の忠誠。師匠への義理。十二年間積み重ねた時間。正しいか間違っているかではなく、裏切れないのだ。忠誠は論理ではない。論理で切れるなら、忠誠とは呼ばない。


「芝山さん。告発書は今日、東京地検に提出します」


「知っている」


「止めますか」


「止める権限は、もうわたしにはない。水守の書面も失敗した。——わたしの手は、全て使い切った」


 青。芝山は自分の限界を知っていた。査察班の班長としての権限では、もう止められない。全ての手段を使い尽くした人間の声。


「宇津木さん。一つだけ、頼みがある」


「何ですか」


「神崎先生を、ただの犯罪者として書かないでくれ。この業界を作った人間だということを、どこかに残してくれ」


 わたしは答えなかった。


 告発書はA4百二十二枚。その中に、神崎良一の功績は一行も書かれていない。告発書は犯罪の記録であって、功績の記録ではない。芝山の頼みは、告発書という文書の性質と矛盾している。


 だが、芝山の頼みが青であることは見えた。


 蓮田が立ち上がった。マグカップを机に置いた。中のコーヒーは冷めている。


「芝山」


「何だ」


「お前は、選んだんだ。——組織を選んだ。俺はそう言ったはずだ」


 蓮田の声は低く、静かだった。怒りはない。責める調子もない。事実を述べているだけ。五十歳の管理職が、四十五歳の管理職に、選択の結果を告げている。


 芝山はパイプ椅子から立ち上がった。膝の上のマフラーを首に巻いた。コートの襟を直した。壁の付箋を最後に一度見た。七枚。黒・雷・水・乃・鶴・庁・神。


「蓮田さん。——お前の部下は、よくやっている」


「俺の部下じゃない。第三課の仲間だ」


 芝山は微笑んだ。穏やかな笑み。だが、目の下の隈がその穏やかさを裏切っていた。曲がったネクタイも。


 ドアを開けて、芝山は出ていった。足音が廊下のリノリウムを叩く。遠ざかっていく。エレベーターのドアが開く音。閉まる音。十二階の廊下に静寂が戻った。


 わたしは壁の付箋を見た。『庁』。芝山の一文字。剥がさない。芝山は敵になった。だが、芝山の存在は消えない。門番は門を離れても、門はそこにある。


 蓮田がマグカップを手に取った。冷めたコーヒーを一口飲んだ。顔をしかめた。


「行くぞ。地検が待ってる」


「はい」


 わたしは黒い革鞄を持って立ち上がった。右目の奥に、ちらつきが残っている。昨日のTier 4の代償。左目で補えば、歩くのに問題はない。


 芝山は門番だった。門の向こう側に、鶴岡と神崎がいる。門は、もう、開いている。

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