第82話「法廷の刃」
書面は十二月二十七日の朝に届いた。
金曜日。告発書を東京地検特捜部に持ち込む予定の日。三豊ビル北館十二階、第三課の事務室。朝八時。わたしは机の上に置かれた封筒を開けた。白い封筒。差出人は水守達也法律事務所。宛名は宇津木伊吹。
中の書面を広げた。A4二枚。冒頭は——
「宇津木伊吹殿。——貴殿が作成中の告発書について、事前通告いたします」
水守は告発書の存在を知っていた。
蓮田が隣の席から身を乗り出した。
「何だ、それは」
「水守達也からの書面です。告発書について事前通告、と」
蓮田がマグカップを机に置いた。コーヒーが揺れた。
わたしは書面を読み進めた。
内容は明確だった。水守の文章は、無駄がない。一文一文が法的な意味を持っている。行間に遊びがない。弁護士の文章。
「告発書に含まれる情報の一部は、ダンジョン庁の機密情報に該当する可能性がある。機密漏洩として刑事告訴を検討する」。
法的な脅迫。告発書が出る前に、告発者を犯罪者にする。
わたしは【真贋鑑定】Tier 1で書面を読んだ。
全文青。
水守は本気だった。脅しではない。実際に告訴する準備がある。書面の一行一行が、法的な根拠に基づいて構成されている。嘘はない。曖昧な表現もない。全てが本気の青。
「芝山が伝えたのか」
蓮田が言った。
「可能性は高い。芝山さんは、わたしたちの調査範囲を把握していました。告発書の存在も察知していたはずです。——ですが、もう一つ考えられます」
「何だ」
「鶴岡です。三日前にわたしが鶴岡に会ったことで、鶴岡側が動いた。水守は、鶴岡の法的防壁です」
堤が事務室に入ってきた。外からの冷気を纏っている。マフラーを外しながら、わたしの手元の書面を一瞥した。
「水守か」
「知っていたんですか」
「鶴岡に会った以上、来ると思っていた。——水守達也の常套手段だ。告発者を先に法的に追い込む。攻撃は最大の防御」
*
午前十時。第三課の事務室に佐伯浩太郎が来た。
顧問弁護士。堤が連絡を入れた。佐伯はスーツケースを持って、護国寺からタクシーで駆けつけた。小太りの体をパイプ椅子に押し込めて、水守の書面を三回読んだ。
「これは防御です。攻撃に見せかけた防御」
佐伯は書面をテーブルに戻した。
「水守達也は、日本で五本の指に入る企業法務弁護士です。彼がこの書面を送ってきた時点で、鶴岡側は本気で告発書の提出を阻止しようとしています。——方法は、機密漏洩の刑事告訴。告発者を犯罪者にすることで、告発書の信頼性を毀損する」
沢渡が手帳を開いた。
「機密漏洩で告訴できるんですか。わたしたちの調査は、査察班の業務の一環です」
「水守はそこを突いてくるでしょう。査察班の業務として取得した情報を、班の承認なく外部に持ち出した。これは機密漏洩に該当する——と主張する」
「芝山班長が承認しないのだから、持ち出しようがない。——それ自体が問題なのに」
「理屈はその通りです。ただし、法的には形式が問題になる。承認のない持ち出しは、動機に関係なく違反は違反です」
蓮田が腕を組んだ。
「退けられるのか」
「退けられます。内部通報者保護法。公益通報者保護法の適用範囲であれば、機密漏洩の告訴は却下される。——ただし、条件があります」
佐伯がスーツケースから書類を出した。法律の条文のコピー。付箋が何枚も貼ってある。
「告発の対象が刑事犯罪であること。告発先が適切な行政機関または捜査機関であること。そして——告発者が業務上知り得た情報のみを使用し、不正アクセス等の違法手段で取得した情報を含まないこと」
沢渡が顔を上げた。
「わたしは金融庁からの出向者です。出向元への情報共有は、内部通報者保護の範囲内です。——ただし」
「ただし」
「Tier 4で取得した情報があります。暗号化された電子署名の解読。これが『不正アクセス』に該当するかどうかは、判例がありません」
部屋が静まった。空調の音だけが低く鳴っている。
わたしは水守の書面をもう一度読んだ。Tier 1で。
全文青。水守は本気で、この論点を突いてくるつもりだ。スキルによる情報取得が不正アクセスに当たるかどうか。ダンジョン関連法規にもIT法にも、明確な規定がない。グレーゾーン。水守は、グレーゾーンを武器にする弁護士だった。
「もう一つ、気になることがあります」
わたしは書面の二枚目を広げた。
「水守の書面に添付されている『機密情報リスト』です。告発書に含まれるとされる機密情報のリスト。二十三項目ある」
わたしはTier 4の使用を考えた。右目の奥が熱い。月の上限を超えている。恒久的損傷のリスク。
だが、この書面の中に暗号化された参照番号がある。機密情報リストの各項目に付された管理番号。通常のTier 1では読めない。数字の羅列にしか見えない。
「堤さん。少し、目を使います」
堤がわたしを見た。
「今か」
「三十秒で済みます。——書面だけです」
堤は二秒黙った。
「やれ。——だが、三十秒以上は使うな」
わたしは目を閉じた。深く息を吸った。Tier 4を起動した。
視界が灰色に反転した。
テーブルの上の書面が白く浮かび上がる。黒い文字の間に、見えなかった白い文字が現れた。暗号化された参照番号の下に、実際の出典が浮かんでいる。
——機密情報リストの二十三項目のうち、十二項目は正規の機密指定を受けた文書からの引用だった。残りの十一項目は——
わたしは目を閉じた。Tier 4を切った。
視界が灰色から色彩に戻る。だが、右目の奥が焼けていた。鈍い痛みではない。鋭い熱。右目の視界が、ちらついている。まばたきを三回。四回。五回。視界が安定するまで十秒かかった。
「宇津木」
蓮田の声。
「大丈夫です。——水守の機密情報リスト、二十三項目のうち十一項目は偽装です」
「偽装」
「リストに含まれる『機密情報』の半分近くは、実際には機密指定を受けていない文書です。公開情報や、通常の業務文書からの引用を、機密情報として偽装している。水守は、告訴の根拠を水増ししている」
佐伯が身を乗り出した。
「それが証明できれば、告訴は瓦解します。不当告訴として、逆に水守を追い込める。——宇津木さん、その十一項目の出典を、書面で整理できますか」
「できます。今日中に」
沢渡がペンを走らせている。手帳に、十一項目の番号を書き留めている。正確な筆跡。数字は一つも間違えない。
*
午後三時。わたしは十一項目の出典整理を終えた。
右目のちらつきが、続いていた。視界の右側が、不規則に明滅する。蛍光灯の光が、直接目に刺さる感覚。机の上の書類を読むたびに、文字がぶれた。左目だけで読む癖がつきはじめている。
沢渡が隣の席で、告発書の最終調整をしていた。金融庁を経由せずに取得した再保険データが、昨日届いた。ロンドンの引受代理人からの回答。百二十七ページ。沢渡はそれを一晩で読み、告発書の該当箇所に組み込んだ。
「沢渡さん。告発書は完成しましたか」
「はい。A4百二十二枚。添付資料は、四百三十八枚になりました。——水守の偽装リストへの反論書も追加したので、二枚増えています」
佐伯が反論書の最終チェックをしていた。法的な文言を一つ一つ確認している。指でなぞりながら読む。弁護士の読み方。
「宇津木さん。水守の書面への対応は、明日の提出と同時に行います。特捜部に告発書を提出するのと並行して、水守への回答書面を送付する。告訴の根拠となる機密情報リストの半分が偽装であることを、証拠付きで返す」
「水守はどう出ますか」
「引くでしょう。偽装が発覚した告訴を押し通せば、弁護士としての信用が毀損される。水守達也ほどの弁護士が、その選択はしない」
堤が窓際に立っていた。十二月の午後。向かいのビルの窓に西日が当たっている。
「告発書の提出は予定通り明日か」
「はい。十二月二十八日。土曜日ですが、特捜部には事前に連絡済みです。年末特別受付で対応してもらえます」
「蓮田」
「何だ」
「明日は全員で行くのか」
蓮田が壁の付箋を見た。七枚。
「俺と宇津木と沢渡で行く。堤は三豊に残れ。——万一、提出が妨害された場合のバックアップだ。早乙女と有坂にも待機させる」
堤は頷いた。
わたしは右目を手のひらで覆った。ちらつきが収まらない。明日までに回復するか、分からない。右目の視界が使えなくても、左目があれば書類は読める。告発書は完成している。あとは、持っていくだけだ。
水守の刃は鋭い。だが、暗号化された鞘の中に、偽物が混じっていた。




