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ダンジョン保険の例外案件係に左遷された俺、【真贋鑑定】で業界の闇を全部暴く  作者: 夜摩 高嶺
第三部『シンジケート』

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第81話「沈黙の帝王」

 鶴岡はコーヒーを飲んでいる。わたしは手をつけない。


 朝食のテーブルでの対峙が続いていた。グランドプリンスホテル高輪、二十一階、『桜の間』。窓の外では東京の朝が明けきっている。品川のビル群に朝日が当たり、ガラスが橙色に光っていた。


 鶴岡武彦は急がない。コーヒーカップを持つ手は安定している。六十二歳の手。皺はあるが震えがない。爪は短く切り揃えてある。指は細い。書類を扱う手。ペンを持つ手。契約書に署名する手。


「鶴岡さん。雷電クランの再保険詐欺について伺います」


「桐生くんの件でしたら、金融庁に全て報告済みです。——ご存じでしょう」


 黒。報告したことは事実だろう。金融庁への報告書は確認済みだった。だが、報告の中身が問題になる。報告書は桐生を首謀者として記述し、鶴岡の名前は一切出てこない。報告自体が隠蔽の手段になっている。嘘は書いていない。書くべきことを書いていない。


「報告書の内容は把握しています。桐生良太郎を首謀者とし、再保険スキームの全容は解明中と記載されている。ですが、スキームの設計者は桐生ではありません」


「スキームの設計者。——それは、誰だとお考えですか」


 黒。質問を質問で返す。鶴岡は自分から情報を出さない。相手に仮説を語らせ、その仮説の精度を測る。尋問者の手法を朝食テーブルの上で使っている。


 Tier 4を使いたかった。鶴岡の黒を貫通するには、Tier 4が必要だった。灰色に反転した視界の中で、黒塗りの下に白い文字が浮かぶ。あの力があれば、鶴岡の言葉の裏にある本当の意図が見える。


 だが、使えない。ここで反動に崩れれば終わる。色覚反転が六時間から八時間。ちらつきが四十八時間。月の上限を既に超過している。次に使えば、一時的な失明のリスクがある。敵の前で目が見えなくなる——それは死を意味する。比喩ではなく。


 Tier 1で戦うしかない。右目の奥の残熱が、使うなと警告している。十二月に入ってから消えない熱。三回の使用で蓄積された代償。


 わたしは戦術を変えた。


 質問では崩せない。鶴岡は質問に答えない人間だ。答えているように見えて、何一つ情報を渡さない。Tier 1で視ても黒しか見えない。黒の壁に質問を投げても、跳ね返ってくる。


 ならば、こちらから出す。情報を開示する。鶴岡の反応を見る。


「朝日ダンジョン投資事業組合」


 名前を口にした。鶴岡の目がわずかに動いた。


「第一号出資者は、あなたです。鶴岡武彦。出資額は三億二千万円。第二号出資者は神崎良一。一億八千万円。運営管理者は水守達也。設立は十一年前、ダンジョン出現から二年後の二〇一五年七月」


 鶴岡の表情が変わらない。笑みも消えない。声のトーンも変わらない。


 だが——コーヒーカップを持つ指が、一瞬、止まった。


 カップが唇に届く前の零コンマ数秒。指の動きが止まり、再開した。スキルではない。Tier 1が映した色は変わらず黒。だが、身体が反応した。言葉では隠蔽できても、指の動きまでは制御しきれない。四十年かけて言葉を武器にした男にも、身体という裏切り者がいる。


「朝日投資事業組合は合法的な投資ビークルですよ。設立登記も出資者名簿も、全て法令に則って管理されている。水守が、きちんとやっています」


 黒。だが、この黒は厚い。先ほどまでの黒より、密度がある。隠蔽の層が一枚増えた。


「合法的な投資ビークルの裏で、再保険の出資構造が二重化されていました。表の出資者と、裏の出資者。ダンジョン事故の保険金が、再保険を経由して朝日組合に還流するスキーム。年間百五十億円です」


「それは、あなたの推測ですか。それとも、証拠がありますか」


 黒。だが声のテンポが微かに速くなった。〇・五秒。先ほどまでの完璧なテンポから、ほんの少しだけ。


「証拠はあります」


 わたしはそれだけ言った。裏帳簿の内容も、電子署名付きの事故偽装マニュアルも、ここでは口にしない。手の内を全て見せる場面ではない。


 鶴岡はコーヒーカップをソーサーに置いた。磁器が触れる音。静かな音。窓の外で、品川の街が朝の活動を始めている。車のクラクションが遠くで鳴った。


「宇津木さん」


「はい」


「あなたは優秀な査定官だ」


 初めて、鶴岡の言葉に色が混じった。


 青。


 この部分だけが、青。宇津木伊吹が優秀であるという評価は、鶴岡が本気で信じている。黒一色の中に浮かんだ、小さな青。朝日組合の出資構造を、金額と日付まで正確に把握している人間への、純粋な評価。


「——だが、査定官は、査定をする人間です。判決を下す人間ではない」


 青。続けて青。鶴岡はわたしの能力を認めた上で、わたしの立場を定義しようとしている。査定官であって裁判官ではない。証拠を集めることはできても、断罪することはできない。それが鶴岡の認識であり、同時に防衛線だった。お前はこちら側に来る人間ではない。そう言っている。


「判決は裁判所が下します。わたしの仕事は、判決の材料を揃えることです」


 鶴岡は黙った。


 初めての沈黙だった。ここまで鶴岡は途切れなく言葉を発し続けていた。言葉を絶やさないことが、この男の流儀。空白を作らない。空白は弱さだから。だが今、鶴岡は黙っている。テーブルの上のナプキンを、指先でわずかに整えた。無意識の動作。


 五秒。窓の外のビルのガラスが光っている。テーブルの上のコーヒーポットが朝日を反射していた。遠くで、廊下をレストランスタッフが歩く足音がした。カーペットに吸われた柔らかい足音。


「わたしは長くこの業界にいます。長くいると、色々なものが見えるようになる。あなたの目とは違う種類の、経験の目です」


 黒に戻っていた。青は消えた。一瞬だけ見せた本音を、再び黒の幕で覆った。


「今日はここまでにしましょう。朝食が冷めてしまう」


 鶴岡は微笑んだ。薄い笑み。口元だけが動く。目は動かない。


 わたしは立ち上がった。朝食には手をつけなかった。コーヒーカップの中身はとうに冷めている。クロワッサンのバターの匂いが、個室の空気に残っていた。


「失礼します」


「また、お話しする機会があるといいですね」


 黒。


 ドアを開けて廊下に出た。右目の奥が疼いた。Tier 1の残響ではない。もっと深い場所。Tier 4の記憶。使いたかった。使えば、鶴岡の黒の下が視えたかもしれない。


 エレベーターで一階に降りた。堤がロビーのソファに座っていた。日経新聞を広げている。読んでいるわけではない。わたしの顔を見た。


「どうだった」


「黒一色でした。ですが、一つだけ、青が出ました」


「何に対して」


「わたしに対して。——奇妙な敬意でした」


 堤は新聞を畳んだ。ソファから立ち上がる。


「鶴岡が人間を認めるのは珍しいことだ。それ自体が、情報だな」


 ホテルのロビーを出た。十二月の朝の空気が顔に当たった。品川の通りに通勤の人波が流れている。スーツの群れの中を、二人で品川駅に向かって歩いた。


「鶴岡は指が止まったか」


「一瞬だけ。朝日投資事業組合の出資構造を出したとき」


「そこが急所だな。——あの男は言葉では崩れない。身体で崩す。次に会うときは、もっと精度の高い数字を用意しろ」


「次はありません。次は、告発書です」


 堤は黙って頷いた。品川駅の高輪口が見えてきた。改札に向かう人の流れに合流する。


 鶴岡は初めて、青い言葉を一つだけ、こぼした。それは、わたしへの、奇妙な敬意だった。

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