第9話「雷電の名前」
「率直に申し上げましょう。保険金の件は、取り下げます」
辰巳耕司は、応接室の椅子に、深く座っていた。
翌朝十時ちょうど。三豊ビル北館十階の来客用応接室に、蓮田とわたしが対面していた。受付からの内線に、辰巳は独りで来た。
近くで見ると、辰巳は写真より顎の線が柔らかい。首筋の火傷跡が襟の上にわずかに覗く。
オーダーメイドの濃紺スーツ、緩めたネクタイ。やり手が警戒を解いた装いだった。
「七件全部、取り下げですか」
「戸川の一件を含めて、八件。装備破損申請、全額、自主的に撤回します。既に支払われた分は、当社から返金手続きを」
「なぜ、今」
「戸川が、違法素子で立件される見通しになりました。うちとしても、コンプライアンスの観点から、関連申請を一旦整理する、ということです」
辰巳の言葉の上に、赤が重なった。『コンプライアンス』の一語の上に、濃い赤。——虚偽。本当の理由ではない。
「辰巳さん」
「はい」
「三年前、違法素子密売摘発の捜査線上に、あなたの名前がありました。当時、摘発は未遂で終わりました」
辰巳は、眉一つ動かさなかった。
「古い話ですね」
「古い話です。しかし、南池袋第二ダンジョン第四層の残響追跡で、あなたと副代表の薄井さんが戸川氏の事故現場に同席していたことが、確認されています」
辰巳の指先が、応接テーブルのコーヒーカップの縁を、一度、撫でた。一秒の動作。
目尻の筋が、二回、微かに動いた。
「残響追跡、を、例外案件係で使える人間がいるのですね」
「ええ」
「お名前は」
「守秘義務です」
「結構です。お察しします」
辰巳は、そのコーヒーを、一口啜った。蓮田の淹れたコーヒーだった。
今日は、蓮田自身もマグカップを持ち込んでいる。蓮田は、対面して、冷めたコーヒーをゆっくりと飲んだ。
「宇津木さん、でしたね」
「宇津木伊吹です」
「率直に言います。この件、これ以上掘らないでいただきたい」
辰巳の口調は、脅迫ではなかった。むしろ、頼み込むような、丁寧な声だった。だからこそ、わたしは警戒を強めた。
「理由を、伺っても」
「わたしは、三年前の件について、知らないわけではありません。ですが、わたしの後ろには、わたしよりもっと掘られたくない人たちがいます。岩礁は、小さい会社です。小さい会社ができる撤退は、これが精一杯です」
「『後ろの人たち』の、お名前を」
「……申し上げられません」
黒。——黒。
辰巳の口元に、意図的な隠蔽の色が、濃く視えた。
「辰巳さん」
「はい」
「あなたは、保険金を自主返還することで、ご自分とクランを守ろうとされている。それは理解しました。しかし、わたしの仕事は書類の真偽を明らかにすることです。ご自身の事情を忖度することではありません」
「書類は、もう取り下げます」
「取り下げの経緯も、書類です」
辰巳は、しばらくわたしを見ていた。それから、小さく、笑った。
あきらめの笑いだった。
「蓮田さん」
「なんだ」
「宇津木さん、ご苦労なさいますよ」
蓮田は、カップを置いた。
「苦労には、慣れてる」
「そうでしょうね」
辰巳は、立ち上がり、わたしに向かって、深く一礼した。帰り際、応接室のドアの前で、彼はもう一度、こちらを振り返った。
「宇津木さん」
「はい」
「——撤退と降板は、別物です。どうぞ、お気をつけて」
言葉の意味は、その瞬間にはまだ、完全には掴めていなかった。しかし、言葉の末尾に、警告の匂いだけは残っていた。
*
十三時二十分。
例外案件係のデスクに戻ると、早乙女がノートパソコンの画面を指で押さえて、こちらを見た。
「岩礁、金融庁に任意の情報照会をかけたって、業界ニュースに出た」
「早いですね」
「三十分前」
辰巳は、ここへ来る前に、既に別の撤退手続きを動かしていた。自主申告で、金融庁にも、保険庁にも、情報を出す。
組織的詐欺の証拠を、自分の側から開示することで最小限の処分で切り抜ける算段だろう。
「雷電の動き、どう出るか」
「分かりません。岩礁が撤退すれば、岩礁経由の資金還流ラインは、切れます。雷電側は、切断を前提に動く可能性が高い」
蓮田がぽつりと言った。
「厄介なのは、岩礁の撤退を誰が指示したか、だ。自主判断じゃないな、あの辰巳の動き方は」
「本社の指示、ですか」
「雷電の上のほうか……あるいは三豊の、本社企画部の誰かが話をつけた」
蓮田の言葉にわたしは顔を上げた。
「本社企画部、というと」
「企画部は、大手クランとの再保険契約の窓口を持ってる。岩礁の尻尾切りを指示できる立場の人間が、うちの中にもいる、ってことだ」
わたしの脳裏に、雷の印のついた契約書の末尾が浮かんだ。
*
十五時四十分。
内線が鳴った。受けたのは早乙女だった。彼女は短く応答し、受話器を押さえてこちらを向いた。
「本社企画部、氷室瑞樹主任。宇津木を名指し」
「通してください」
受話器を受け取った。聞き覚えのある、しかし長く聞いていない声が耳元で響いた。
『お久しぶりです、宇津木さん』
「氷室主任」
『五年ぶり、ですね』
メガバンク融資担当時代の同期。隣のデスクで働いた時期もあった。
わたしの内部告発時、彼女は別部署に異動していた。その後、銀行を出て三豊へ移籍。わたしの出向より半年早かった。
『今日の十八時、麻布のバー『グラウス』で個人的にお会いできませんか』
「業務連絡でしょうか」
『いえ、業務外で。——宇津木さんの、個人的なご判断を伺いたい件があります』
「お断りしても」
『その場合、わたしは明日の午前、本社企画部長の前であなたの例外案件係の存続可否について意見を述べる予定です』
脅迫ではなく告知だった。——仕事の仕方は銀行時代と変わっていない。
「伺います。十八時、『グラウス』」
『お待ちしています』
通話が切れた。
受話器を置いたわたしに、蓮田が低い声で尋ねた。
「氷室、だったな」
「ご存知で」
「本社の若手のエースだ。三年前、岩礁の件で動いた刑事を冤罪で外す指示を出した警察内部の人間と、飲み屋で席を共にしたっていう噂を耳に挟んだことがある」
「噂、ですか」
「噂だ。だが、うちの業界、噂はだいたい後追いで書類になる」
蓮田はマグカップを今日はもう一口啜った。
*
十八時ちょうど。
麻布十番、グラウス。古い石造りの雑居ビルの地下。
オーク材のカウンターと四席だけのテーブル席。薄暗い照明。氷の音だけが静かに響く。
氷室瑞樹は奥のテーブル席にいた。
百七十近い長身、黒いパンツスーツ、銀縁眼鏡。髪は後ろで束ねている。
銀行時代より、顔の輪郭が少しだけ鋭くなっていた。
「お久しぶり」
「ご無沙汰しております」
「敬語、続ける?」
「仕事の話ですので」
「そう」
氷室はジントニックを一口啜った。わたしは同じものを頼んだ。
ライムがグラスの縁に沈んでいた。
「岩礁の件、手を引いてほしいの」
前置きはなかった。
「理由を」
「岩礁の背後にいる人たちは、宇津木さんが相手にするには大きすぎる。岩礁の自主撤退で会社としての損失は出ない。保険金は返還される。あなたの仕事は完了している」
「書類の真偽はまだ確定していません」
「確定させる必要はない」
「氷室さん」
「なに」
「あなたは、書類を読むのが上手な人でした。今も読むのは上手ですか」
氷室はわずかに微笑した。ジントニックのグラスに一度、指先を触れた。
「読むのは上手よ。——でも、読んだものをそのまま信じるのはやめた」
「それは三豊に来てから」
「銀行を出てから」
彼女の目の奥に五年前の何かが薄くよぎった気がした。——告発した不正融資を彼女がどこで見ていたのか。わたしは今も知らない。
「宇津木さん」
「はい」
「降りて。——明日の朝、例外案件係から岩礁案件の担当を外す。その代わり、第三課の存続はわたしが守る。他の塩漬け案件はそのまま続けていい」
「お断りします」
即答だった。
「どうして」
「わたしは降り方を知りません」
氷室はグラスを置いた。氷が、カラン、と小さな音を立てた。
彼女は目を細めて、それから静かに笑った。皮肉でも嘲笑でもない、どこか、少しだけ懐かしそうな笑いだった。
「あなたは昔から降りるのが下手ね」
わたしはジントニックのグラスの縁を指先で一度、軽く撫でた。
ライムの切れ端が氷の下でゆっくりと沈んでいった。




